異次元 【茨の檻】 「……今まで俺が出会ってきた人間の中で、名無し殿は過去最高にひどい女性です」 法正の指摘に、名無しは『えっ』と短い返事を零す。 「あなたから受ける数々の御恩に、俺も仕事や戦働きで恩を返してきました。ですが、返せど返せどそれは一向に帳消しになる未来が見えない」 「法正、殿…?」 「俺が返す傍から、名無し殿はまた新しい恩を与えてくる。次から次へと息をつく間もなく恩を売られ……。未来永劫、その繰り返し」 「…!恩を売るなんて、私はただ」 「ああ、反論は無用です。名無し殿の行為が善意十割で作られている事くらい、俺だって承知していますので」 笑みも交えず語る男が、名無しの言葉を跳ねのける。 「ですがあなたの慈愛が大海原のような広さと底無しの物量を誇るとすれば、俺はまさにその中で溺れる魚。恨みには恨みを、恩義には報恩で返すのが俺の流儀だというのに、俺は名無し殿から頂いたものを全て返せていません。こんなものでは、まだまだ足りない」 「…法…」 「今後、名無し殿が食事をする度に俺が毎回毒見をすればいいのでしょうか。戦場であなたが命の危機に瀕したら、俺が毎回敵とあなたの間に割り込んで、手足を失おうが、半身不随になろうが、あなたの代わりに全部敵の攻撃を引き受ければいいのでしょうか?……違いますよね」 「…法正殿。な、何を…?」 「そうなればあなたは余計に俺に対して申し訳ないと引け目を感じ、一層俺の為に何かをしようとされるだけです。そうでしょう?俺が重傷を負えば、あなたのような女性がそんな状況で平気でいられるはずがありません。あなたはその返礼に、その身を挺して俺を守ろうとするはずです。極端な話、時と場合によっては命をも投げ出すくらいに」 「それ、は…」 「そこまでいくと俺も当然己の命を懸けるしか天秤が釣り合わなくなる訳ですが、死んでしまっては意味がない。別に自分の命を惜しむつもりは毛頭ないですが、できれば俺はもっと生きて少しでも長く殿のお役に立ちたいし、あなたへの恩返しが完了する前に舞台から退場するのは俺の信念に反する。本意ではないということです」 「……。」 「そうなると、益々どうすればいいのか分かりません。これではただの終わりなき根競べです。俺があなたを大切にしようとすればするほど、それを遥かに上回る善意をもってあなたは応じます。あなたの優しさは、どれだけ他人に与えても枯渇する事がありません。尽きることのない愛情の泉。……まるで聖母だ」 男の口から放たれる言葉の数々は、誉め言葉なのだろうか。それともただの皮肉か。 話しながら、法正の双眸がゆっくりとその色を変えていく。 言葉通り、どうすればいいのかその方法を彼なりに色々と考えているように思え、名無しは無意識のうちに後ずさる。 先程までかすかに感じていた危険予知が、格段に大きな警報音となって名無しの脳内で鳴り響く。 本当に、これ以上この空間に留まるのは得策ではない。 さっさと要件を済ませて、帰るべきだと。 「…申し、訳、ありません…」 震えてしまいそうな衝動に抗い、ぽつり、と名無しが呟く。 「何故、名無し殿が謝るのです」 「私の行動が…私の存在が、法正殿をそこまで悩ませているとは知りませんでした」 己の不甲斐なさに、泣きたいような気持ちが募る。 「お伝えしましたように、私は法正殿をお慕いしております。ですが、それは単なる私の身勝手な感情です。恩を恩で返される法正殿のような方ならば、このように何かをお持ちしたり、お部屋を訪れる事に『自分も恩返しをしなくては』と負担に思われるのは当然の結果だと思いますのに、私が浅慮ゆえにそこまで考えが至りませんでした」 本当に、愚かだった。 法正にこうして正面から言われるまでその事に気付かずずっと過ごしてきただなんて、自分の無神経さを呪い、ただひたすら呆れるばかり。 そう思うと、今日こうして法正に会いに来て良かった。直接本音を言って貰えてよかったと思う。 彼にとっては自分の来訪は災いで、迷惑な行為だったと思うけど。 「さっき法正殿が私にかけて下さったお言葉…『もうこれ以上あなたに近付くことはせず、離れた場所から御身を見守るだけにいたしましょう』というものは、私の方こそするべきものです」 青ざめる名無しの姿を、法正は無言で見つめている。 「今更遅い事だとは分かっておりますが、今後法正殿には近付きません。ですが、もし…、それでも法正殿からのお許しを頂けるのであれば…。こんな私でも、何かのお役に立てることがあるのだとすれば…いつでもお呼び下さい。その時は───」 俯きながらそこまで言って、名無しがハッと顔を上げる。 こんな自分にも何か出来ることがあれば、だなんて。 これでは結局、法正が話していた『恩返しの根競べ』の無限ループに過ぎないではないか。 人間、生まれてからずっと持ち続けてきた性格や考え方を、一朝一夕でそう簡単に変えられるものではない。 法正の言う事が頭では理解できているつもりだったのに、半ば癖のように同じ言葉がつい出てしまう事に名無しは愕然とした。 どうしてこんなにも馬鹿なんだろう、私は。 「……っ、今のは、不適切な発言でした。すみません」 「……。」 「それでは法正殿、重ね重ね、夜分遅くに大変失礼いたしました。おやすみなさい」 名無しは深々と頭を垂れ、男の視線から逃れるように踵を返す。 もう二度と、法正殿のお顔を間近で見られることはないかもしれない。 でも、きっと……これでいい。 そうすればもうこれ以上法正殿に対して余計な手出しをする事もなく、彼に負担をかける不安がなくなるのだから。 そんな事を考えながら涙を堪えて扉の方へと足を進め、覚悟を決めてぎゅっと取っ手を掴んだ直後、彼女の頭上に黒い影が落ちる。 (……!?) ゾクリ。 背後に、誰かがいる。 確信に息を飲む名無しの唇に、後ろから男の手が伸びてきた。 「誰が逃げてもいいと言いました?」 ゾクゾクッと、頭の天辺から足の爪先まで一直線に電流が走る。 「…ほう、せい、ど、の…?」 「部屋を出ることを許した覚えはありませんよ」 男の両腕が、まるでスローモーションのように緩慢な動きで左右から名無しを包み込む。 逞しくて力強い法正の腕で背後から抱擁されていることを悟り、名無しはゴクンと生唾を飲み込んだ。 その言葉の響きだけなら一見ロマンチックな行為にも思えるが、抱き締められた己の体が石のように硬直し、さっきから冷や汗が止まらないのは何故だろう。 本能的な『恐れ』を察してか、名無しの手足には鳥肌が立っている。 「それ、は…。私の存在が、法正殿の…ご迷惑、だと…」 「まさか。何故そう思うのです。あなたともっと一緒に居たくて、会話を長引かせているのだとお伝えしたはずでしょう。名無し殿が俺を避けずに話しかけてくださることをとても嬉しく感じている、単純な男だと」 耳元で囁かれる男の声が、耳朶に感じる男の吐息が、熱い。 [TOP] ×
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