異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




「えっ、と…?」
「驚きましたか」

でも、だからといって、いつまでこうして繋いだままなんだろう。

だって、法正殿の手がゆっくりと動いている。

単純に手を握られているだけではなく、いつの間にか彼の指が自分の指の間に滑り込み、まるで恋人繋ぎのように指を絡められている……!

「あっ、あ…ありがとうございます、法正殿!」
「おっと」

名無しは声を張り上げると、その勢いのままに素早く己の手を抜き取った。

「法正殿にそんな風に言って頂けて、嬉しいです、私。不束者ですが、同じ軍に所属する仲間としてこれからもどうぞよろしくお願いします!」

大きく息を吸い、ぎこちない笑みを浮かべながら名無しは一気に言い終えた。

危ない。危なすぎる。

法正殿が私に対して向ける感情なんて、私と同じであくまでも友愛に過ぎないことくらい、馬鹿でも分かることなのに。

あまりにも彼の眼差しが妖艶で、その声がどことなく甘い色を帯びていて、しっとりとした大人のムードがまるで湯気のように自分たちの周囲に立ち上っていたものだから、危うく変な意味に勘違いするところだった。

だめだこの空気。場の流れに呑まれてしまう。

きっとこのままでは、法正殿にみっともない姿をお見せしてしまう!

「……ええ」

目を眇めた法正が、名無しから静かに離れる。

その声音がとても名残惜しそうで、名無しの手の感触を思い出すみたいに己の手を顔の前に持っていき、そっと甲の部分に唇を寄せているものだから、名無しの心臓の鼓動は加速した。

「残念。振られてしまいましたね」

おかしい。この状況は絶対におかしい。

普通に考えれば彼の肌に直接触れ、手を繋いでいる時の方が心臓がドキドキするはずなのに、少し離れた位置から物憂げな眼差しでじっと見つめられている方が心拍数が増加するのは何故なのか。

法正殿の目はヤバイ。

退室しないと…!

「やはり俺に触れられるのは不快ですか」
「ち、違います。それはその、えーと…。私、保湿剤が…」
「保湿剤?」

自分の両手を合わせた状態で何度か擦り、尻込みする名無しに法正が聞き返す。

「さっきまでこの本を読んでいましたので。紙面に水分が吸われて、指先がかさついていたら…恥ずかしい…」

気恥ずかしそうに俯く名無しを見て、法正は下腹部に鈍い痺れを感じた。

辛いような、切ないような、悩むようなこの表情。

目を伏せる名無しからほのかに漂う何とも言えない色香と、その姿に歪んだ欲望を覚え、法正は乾いた唇に舌先を這わせる。

この女、こんなにそそる顔をする女だったか?

「何を仰いますやら。白魚のようなお手をして」

ゾクゾクする劣情を抑え、法正は何でもない風を装う。

「なっ…。し、白魚だなんて…私には全然似合いませんし、勿体なさすぎるお言葉ですっ。私よりも法正殿のお手の方がよっぽどすらりとした長い指をしていらっしゃって、お綺麗な手ですので、その…」
「しかし、やはり名無し殿も女性なのですね」
「…え…?」
「普段から男に混ざって仕事をして、戦場でも大勢の兵士を相手に見事な立ち回りを披露していらっしゃるのに、そのような事を気にされるとは。随分とお可愛らしい、ということです」

コツリ、と音がする。

法正が、一歩足を進めて名無しに近付く。

「名無し殿の手は俺に比べるととても小さくて、なめらかで、柔らかくて……可憐ですよ。俺も今まではあなたの事を単なる職場の同僚としてしか見ていませんでしたが、自分と異なる性別なのだと改めて意識しました」
「…あの」
「あなたは女なのだ、とね」

獣の、声か。

放たれた声が、一瞬、人ではないもののように感じた。

だが目の前にいる男はどう見てもれっきとした人間であり、成人した、ヒト科のオス。

何故そんな風に思ったのか分からず名無しは混乱したが、同時に彼女の本能がかすかな危険信号を発する。

「あっ…、忘れていました。法正殿、これをっ」

出し抜けに、名無しは卓の上に置いてあった紙袋を掴んで名無しの顔の前に突き出した。

法正の部屋を訪れた際、兵法書と一緒に名無しが持参したものだ。

本を渡す時に袋を持ったままでは邪魔になると思って一旦置かせて貰ったのだが、中には一本の酒瓶といくつかの果物が入っている。

「こちらのお酒は頂きものなのですが、以前法正殿がお好きだと仰っていた銘柄だと思いまして。あと、用事があって先日城下町を訪れた際に新しい果物屋さんが出来ていたのを知りまして、中を覗いたらとっても新鮮で美味しそうな果物が沢山売っていたのでつい多めに買っちゃいました。私一人では食べきれないので、よろしければどうぞ!」

名無しが袋から取り出して見せた酒は一本10万円は下らない高級酒だ。彼女の元には日頃から多くの役人が訪れるので、仕事の関係者から貰ったのだろう。

法正が紙袋の中を覗くと、彼女が言う通り旨そうな桃や林檎に柘榴、そして小さな籠に一杯詰められた茘枝(ライチ)が目に留まった。

個性的な香りを持ち、絶妙な甘味と酸味を持つ茘枝は、他には無い独特の果実として有名だ。

「これは…全部俺の好物ばかりではないですか。嬉しいですが、いいのですか?この酒だけでも結構値が張る品物ですが、果物代も馬鹿にならないでしょう。特に茘枝は、今年は不作でなかなか市場に出回っていないと聞きますし」
「そうそう、それがたまたま売られているのを発見したので、二籠譲って頂きました。私も好きなのですが、昨年の忘年会で同じ卓に座った時、法正殿もお好きだと仰っていましたよね?」
「ご機嫌ですね」
「ふふっ。だって美味しそうな茘枝を見ましたら、すぐに法正殿のお顔が浮かびましたもの。もうこれは絶対に買わなくちゃ、法正殿にお持ちしなくちゃ!って思っていてもたってもいられなくて、それで」

名無しは心底嬉しそうに告げて、ほうっ…と深い息を零す。

これだけの品物を、ポンと簡単に他人に渡す。

いくら職場の同僚とはいえ、逆に言ってしまえばそれだけだ。

一本10万近くもする高級酒なら、それはもう立派に交渉事や賄賂にも使える道具である。

例え自分が飲まなくても他人に売ったり、精々身内や親戚、恋人、親友といった親しい間柄の相手に譲るくらいで、ただの同僚に渡すような人間はまずいない。

品薄の茘枝も然り。桃や林檎だってこれだけの量があるのなら、果物だってそうだ。

法正は思わず『で、それを俺に与える見返りは?』と名無しに聞きたくなったが、彼女に限ってはそんな事を尋ねる方が愚かしいのだと悟り言葉を飲み込む。

───どうせこの女性の中にはそんな魂胆など塵ほどもなく、本当に、心からの善意で行動しているのだろうと思うから。


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