異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




名無しの視線の先で、男と自分の手ががっちり結合していた。

どうやら必死で彼を止めようとするあまり、無意識のうちに法正の手を両手でぎゅっと握り締めていたようだ。

(なっ…!!)

名無しの頬が、カーッと一気に紅潮する。

「わ、私ったら…!申し訳ありませんっ。なんて失礼なことを───」

やってしまった。

心底焦って即座に手を放そうとする名無しの動きに先手を打ち、法正は逆に彼女の手を握り直す。

「その程度では、報復になどならない」

低く漏らされる囁きに、名無しはびくんっと肩を跳ねさせた。

「俺では頼りになりませんか」

まるで煮詰めたように甘い瞳で至近距離から見つめられ、名無しは狼狽える。

「女性とみればすぐに手を出そうとしたり、痴漢しようとする輩はもう癖のようになっているので、人事に告げ口したところで何の効果もありませんよ」
「それは…、そうかもしれませんが…」
「どうせそれなりの地位についている男でしょうし、都合の悪いことは揉み消すでしょう。万事俺にお任せください。生きていることを後悔するくらい、辛い目に遭わせてやりますから」
「待ってくださいっ。私のせいで、法正殿にそのようなことをさせる訳にはいきません!」

妖しい輝きを放つ法正の双眸に射竦められ、手を引っ込めようと名無しは身じろぐ。

「俺に触れられるのは、そんなに嫌ですか」
「…えっ」
「俺が悪党だから、あなたの手を取る資格などないのだと」

瞳を大きく見開く名無しに、法正は自嘲気味に唇を歪めた。

「どこまでも善良で、お優しい名無し殿……。それだけ悪意ある者達と常日頃から接しておりながら、クズどもに報復することもなく、むしろ奴らに制裁を与えたがる俺を止めようとされる」
「ほ…、法正殿」
「勿論、あなたは単なる考えなしの馬鹿女という訳ではない。今後の人間関係や俺の立場を思いやってのお言葉だろうとは思いますが、あなたの慈悲深さは俺のような性悪には眩しい程です。名無し殿の白さを俺の黒さが汚しているというのなら、もうこれ以上あなたに近付くことはせず、俺は命を懸けた姫君に忠誠を誓う騎士の如く離れた場所から御身を見守るだけにいたしましょう」

試すように、法正が尋ねる。

法正の声に混じる悲しげな響きに、名無しは瞬きすることも忘れて男を仰ぐ。

「法正殿…、なぜご自身のことをそのように仰るのです。あなたは素晴らしい方ではないですか?法正殿は私にとって尊敬の対象で、信頼できる存在です」
「信頼に値するのは俺ではなく、殿やあなたみたいな人ですよ」
「いいえ、法正殿。どうかあなたの良心を責めるようなことはおやめください。法正殿が殿や我が国の為にいつもどれだけ奔走していらっしゃるか、どれだけ多くの交渉事をこなしていらっしゃるのか、私もよく存じております」

交渉ねえ。

思わず眉を吊り上げ、法正は口元だけで笑む。

その内容が一体どんなものなのか、自分が普段行っている行為がどれほどどす黒いことなのか、彼女には知る由もない。

それを知ればいくら名無しであっても、いや、彼女のような性格の人間だからこそ自分を軽蔑するだろうと思うのに。

「ですから法正殿、そのようなことを仰らないでください」
「ああ、無理をなさらなくていいですよ。いつの世も悪人は嫌われるものです。慣れているので───」
「無理などしておりません、本当ですっ。私はあなたを心からお慕いしています。法正殿!」

……。

……。

……えっ?

一瞬、時が止まった。

「……あれっ?」

眉間に皺を寄せる名無しと同様に、法正も怪訝な顔をする。

時間にしてほんの数秒ほどだろうか。

互いに硬直していたが、先に意識を取り戻し、唇を開いたのは名無しの方だった。

「あの、こ、これは…。ごめんなさいっ!その、変な意味ではなく、法正殿の卓越した頭脳と義理堅いお振舞いや、こんな私のためにそこまで怒って下さるお優しさに心底感動しているといいますか、私も是非とも法正殿のような人物になりたいと、本気で憧れていますので…!」

あわあわと、哀れなほどに戸惑いを映す瞳で名無しが説明する。

おそらく彼女の説明通り上司を慕うとか、友人を慕うといった意味で使用したのだろう。

好意を寄せる異性に対して使う場合もある言葉だと思い出し、言ってからまずいと思ったのかもしれないが、名無しの態度からすると本当に恋愛的な要素は全くなく、単に口をついて出ただけの言葉だと思われる。

彼女の言わんとすることを理解した途端、法正の心がざわりと騒ぐ。

あなたのことはまるで異性として見ていません、と正面切って言われることは、ある意味男の沽券に関わることだと言えなくもない。

しかし、元はと言えば自分も名無しのことなど何とも思っていなかったし、興味がないと思っていた訳なので、自分を棚に上げて相手の台詞を不満に思うのはお門違いというものだ。

それなのに、自分でも制御しがたいくらいにモヤモヤした感情が湧き上がるのを自覚し、法正は不思議な気持ちを抱く。

≪おそらくお好きでしょう、ああいう女性≫
≪そうですねえ。一言で申し上げるなら、名無しは『劉備殿の女性版』みたいな性格をしているからです≫

先日姜維に言われた事が尾を引いているのだろうか。

それなのに、彼女の方には全くその気がなさそうなのが気に食わないのか?

この、法孝直が。

他の男に抱かれながら、それでも俺の名を呼び続け、中に入っているのは俺の物だと思い込み、俺に孕ませられたいと泣きながら願う少女達が大勢いるというにも関わらず、俺の前でも平気で『男性として見ていません』とほざく女がこの世に存在する事に内心憤りを感じているのだと?

馬鹿なことを。

「……ふ」

下らない推理だと否定しつつ、それでもやけに姜維の言葉が心の奥底に引っ掛かり、法正は自分でも気付かないうちに言葉を発していた。

「俺もですよ」

俺は一体何を言っている。

こんなものは単なるポーズだ。名無しに対する社交辞令。

職場の人間関係を円滑に進めるためのお世辞であり、リップサービスの一種であり、ただの嘘。

「えっ」

名無しは零れ落ちそうなくらいに瞳を開き、パチパチッと瞬かせた。

男の放った台詞を心の中で何度も反芻させ、その意味について考える。

「あなたが好きだということです」

目の前に立つ男は、意味深に笑んでいる。

法正に握られたままの手が、熱い。

どうして自分は、彼と手を繋いでいるのだろう。

ああそうだ、法正殿が怖いことを仰ったから焦ってお止めしようと思ったんだっけ…?


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