異次元 【茨の檻】 (くっ…。色気がすごい…!!) いつも着ているタイトなシルエットの衣装も彼の雰囲気に良く似合っているが、軍事服も平服も、どちらも広めに開けた胸元は彼のこだわりなのだろうか。 足首までゆったりと覆い隠す上品なデザインの平服に、首筋にはシンプルな黒い革紐のチョーカーがプラスされ、大きく開いた胸元から覗く鎖骨との対比が得も言われぬ雄の色気を醸し出している。 端正な顔を隠すようにはらりと落ちる黒く艶やかな前髪、長い睫毛に彩られた切れ長の瞳、少し厚めの唇は、美形という単語を表現するのに文句なしの造形だ。 男が普段から使っている洗髪剤の香りなのか、肌につける香料の匂いなのか、少し接近しただけでふわりと良い匂いがして頭がクラクラする。 (美人だけじゃなく、美男子も良い匂いがする生き物なんだなあ) 姜維や趙雲といった他のイケメン武将達に近付いた時に漂う香りを思い出し、名無しはしみじみ実感した。 「いつまでそうしていらっしゃるのです。俺の部屋、そんなに散らかっていて入り辛いですか」 「そんな、とんでもないです!」 予期せぬ法正の突っ込みに、名無しは目に見えて戸惑った顔をした。 むしろ散らかっているどころか、綺麗すぎる。 余計な調度品や家具を置かず、本当に必要な物だけで構成されているように感じられる法正の部屋はとても整理が行き届いていて、彼の部屋を見てもっと自分の部屋も片付けなくてはと思ったくらいだ。 「それなら遠慮なさらず。さあ、こちらへ」 男の大きな手で手首を掴まれた名無しは、『あっ』と声を上げる間もなく室内に引き込まれた。 別段深い意味もなく、単純に招き入れられただけだと分かっているのに、法正の手から伝わる体温を感じて名無しは赤面した。 だ、大丈夫かな、私の手。 あああ…、指先がかさついていなければいいんだけど…! 一応、普段から気を付けて水仕事や書類整理の後には両手に保湿剤のクリームを塗っているつもりだが、法正みたいな色男に触られるとやけに焦りを感じてしまう。 美形と接する際の緊張感の大きさは半端ない。 心臓に悪すぎる環境なので、用が済んだら早く戻ろう。 「それで、俺に渡したい本とは何でしょうか」 法正はベッドの脇にある卓に向かって歩き、名無しに背を向けたままで問う。 「先月書庫に入ったばかりの兵法書です。やっと読み終わったところなのですが、確か次の貸し出し希望者に法正殿のお名前があったので、こちらに寄らせて頂きました。もう遅い時間ですしご迷惑かなとも思いつつ、もしかしたら法正殿がお急ぎかもしれないと思いまして」 名無しが差し出した書物は、多くの武将から出た要望に応えて取り寄せした兵法書だった。 入荷したと聞いて法正は直ちに書庫を訪れたつもりだが、すでに貸し出し希望表には数人の名が並んでおり、この分では自分の順が回ってくるのは早くて1〜2か月後だろうと失望していた。 自分より早い希望者が5名を超えた辺りですっかり興を削がれ、名前を覚える気もなかったが、自分の一つ前が名無しだったとは。 「お気遣いありがとうございます。実は、この分だと俺の手元に来るのは当分先だと思って不貞腐れていたのですよ」 「ふふっ!不貞腐れるだなんて。法正殿は大人の魅力に満ちた男性ですのに、そのように少年っぽい部分をお持ちだったとは意外です」 「物は言いようですね。正直に仰って結構ですよ、ガキっぽいのだと」 「違…!」 「ああ、冗談です。あなたともっと一緒に居たくて、会話を長引かせるための策ですよ」 「えっ。私と?」 驚いて顔を上げると、男の手が名無しの持つ書物に伸びる。 「ご存知の通り俺は悪党だという噂が広く伝わっておりますが、名無し殿は俺を避けずに話しかけてくださいますので。俺は単純な男です。良くして下さる相手には、こちらからも距離を詰めます」 わずかな揺らぎもなく、自信に満ちた目付きで自分を射抜く法正の言葉に、名無しはたじろぐ。 この城で何年も過ごしてイケメン武将には耐性を付けてきたつもりだが、それでも法正みたいな超絶美形にじっと見つめられるのは得意ではない。 距離の取り方を見誤ると、ドツボに嵌る。沼に落ちて這い上がれなくなる。 動物園にいる貴重な生物の如く、離れた位置から見ているくらいで丁度いい。 イケメン=取扱い要注意の危険物。 数えきれないほど多くの周囲の争いや揉め事を目にした結果、名無しが導き出した教訓はそれだった。 「そんな……悪党だなんて。だって法正殿はどんなに些細な借りでも返される真面目な方ですし、女性に対しても困った接し方をしない紳士です」 兵法書を手渡しながら、名無しがおずおずと話す。 「ご老中の方々やご両親が高貴な身分に属する若い男性の中には、女性とみればすぐにお尻や胸を触ろうとする方もいらっしゃいますし。先日も私の女官が被害に遭ったばかりですので、くれぐれもお戯れはお止め下さいと申し上げたところです」 ああ、なるほど。 法正は溜息をつきたくなった。 比較的善人が多いとされる蜀軍であっても、分母が大きくなれば一定数の悪人が紛れ込んでいても不思議ではない。 文宋みたいなエロ親父と、分別のない盛りのついたエロガキはどこにでもいる。 いずれにせよ、いつも優しい笑顔を見せる名無しが、このようにはっきりした不快の意を示すのは珍しい。 「名無し殿は大丈夫だったのですか」 「私ですか?私は大丈夫です。でも…そうですね。何度かお尻を撫でられたり、下着の中に手を入れられそうになった事はありますけど」 胸の前で両手を左右に振り、苦笑いで言い募る名無しの顔に法正の視線が縫い止められる。 「いや、それ、何の否定にもなっていないでしょう」 「あはは…、ですよね。でも本当に大丈夫です。ちゃんとその都度文句を言ったり、手を払いのけたりしていますので。あまり悪質になるようなら人事にも…」 「どいつですか?名前を教えてください。特に、下着云々の男を」 「えっ」 「俺が殴っておきましょうか。それとも食事に毒でも盛るなり、崖から突き飛ばすなりしておくか」 「だ、だめですよ。法正殿!」 名無しは裏返った声を出し、慌てた素振りで男の腕に手を伸ばす。 「何故でしょうか。むしろ、殺してもいいくらいですけどね」 強い口調で断じる法正に、彼女は必死で首を振る。 「あの、分かりました!その方にお会いしたら、自分で殴っておきますからっ」 「殴る?失礼ですが、お優しいあなたにそんなことができるのですか」 「えーっと…その、そうですね…」 一途に悩む名無しに、法正は仕方なく話の続きを待つ。 「じゃあこうします。次回同じような目に遭ったら、今度こそ人事に通報します。ちゃんと言いますから」 不安げに揺れる瞳が、痛々しい。 真剣な眼差しで法正を見上げていると、彼の目が自分たちの手元に注がれている事に気付き、名無しはふと下を見る。 [TOP] ×
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