異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




≪どんな悪党でも、この人の前ではいい人のフリをしていたい、猫を被っていたいと思えるような人間が一人くらいはいるものです≫

昼間に会った姜維の言葉が蘇る。

趙雲や馬超のような男性でも、特定の人物の前で猫を被ることはあるのだろうか。そして、それは一体どんな相手なのだろうか。

果たしてこの城内にいるのだろうかと考えていると、何故か名無しの事を思い出す。

(そういえば、趙雲殿と馬超殿も名無し殿と仲が良さそうだったな)

今日の法正と姜維のように、廊下で偶然出会った時。

または食堂や城下町で姿を見かけた時、決まって彼らは親しげに互いの名を呼び合い、談笑していたような記憶がある。

しかし───例外もある。

名無しと直接顔を合わせていない時、離れた位置から名無しを見ている場合。

趙雲も馬超も、時折別人のような目付きで彼女をじっと見つめていることがある。

獲物を観察する時のような、鋭い目線。

牙を持たない草食動物を視界に捉え、間合いを測り、今にも食い殺そうと飛び掛かるチャンスを待ち侘びる、獰猛な肉食動物の如く残酷な眼光。

その時の両者は、まるで爪を隠す猛禽類のようであり、赤ずきんを騙そうと企む狼のようだ。

(あの時、微かに笑んでいなかったか?)

名無しと楽しそうに語り合っている時に浮かべる明るい笑みとは異なり、唇から鋭利な犬歯を覗かせ、舌舐めずりをするような捕食者の笑み。

もしくは酷く思い詰めたような、仄暗い欲望を必死に体内に抑え込んでいるような淀んだ眼差しで、彼らは時々彼女を見ている。

(……。)

ドSの集まりだと噂される魏軍に対し、法正が属する蜀軍は仁義に厚く、真面目で、誠実な人物が多く所属する組織だと言われている。

されどどんなに高潔な志を抱く人物であっても、連日のように続く血で血を洗う争いは戦士達の心から次第に人間性を剥ぎ取り、良心や理性をも溶かしていく。

趙雲も、馬超も、姜維も、そして自分も。

諸葛亮も、劉備の義兄弟である関羽や張飛も、尊敬する劉備とて決して例外ではない。

人によってすでに真っ黒な場合や今のところはまだ白に近いという濃度の違いはあれど、武将と呼ばれる者達は全員何らかの狂気を帯びている。


(世の中は狂っている)


狂気?それとも狂喜?


本当に狂っているのは世間ではなく、俺たちの方なのかもしれない。





その翌日、法正は夢を見た。

以前見たのと同じ円形の建物が、闇の中に浮かび上がる。

またこの夢か。

意味不明な上に代わり映えのしない光景にうんざりしたが、それでも建物の内部を見つめていると、少々変化がある事に気付く。

檻の中に収納されている存在が、前回はただの正体不明の黒い影だったのに、人の形をしていたのだ。

扉の向こうに一人ずつ、若い男が三人居る。

その他、檻によっては相変わらず中にあるのが黒い塊のままだったり、誰もいない空き室もある。

三名の内訳は、オールバックの短髪が一人。長い髪を後ろで一つに束ねている髪型の男が二人。どこかで見たような……。

あえて言えば短髪の男は馬超、残りの二人は姜維と趙雲に似ているように法正は思った。

だが、全員黒い靄がかかっていて顔がはっきり見えない。

短髪の男は檻の奥で壁を背にして座っており、扉から距離を取っていた。

姜維に似た男は扉の正面に立っていて、鉄格子の隙間に指を絡めて中央の床を眺めている。

最後の一人…、趙雲らしき男は腕組みをした姿勢で壁にもたれかかっていたが、彼も目の前にある広い床を見ていた。

すると、前と同じくどこかで扉が開く音がする。

法正が音の鳴った方向に視線を向けると、開いたのは短髪男の檻だった。

『……。』

せっかく扉が開いたのに、男は全く動かない。

ここから出たくない、そちら側には行きたくないとでもいうように、男は扉から目を反らし、息を殺して己の気配を消している。

(何故出ない?)

法正が不可解に思っていると、中央の床の上で揺れていた影が段々と形を変えていく。

遠目からでは分からないが、骨格からするとおそらく人間の女性だろうか。

髪型、体型、身長。これもどこかで見たような……。

震える身体。

血肉を好む凶暴な獣に目を付けられた小動物が怯える様に、よく似ている。




コンコン。

二回響くノックの音。

弾かれるようにしてベッドから上体を起こすと、窓の外はすっかり暗くなっている。

午後の執務を終えて部屋に戻り、ほんの一時間ほど仮眠しようとベッドに身を預けたところまでは覚えているが、どうやら知らない間に眠り込んでいたようだ。

「……はい」

ようやく続編が見られたところだったのに。

出来ればもう少し夢の先を見ていたかったのだが、中途半端なタイミングで眠りを中断されて、法正はいつも以上に低い寝起きの声で答えた。

「法正殿、こんばんは。名無しです」

よく知っている人物の名に、ぴくりと法正の瞼が上がる。

「夜分遅くに申し訳ありません。実はお渡ししたい本がありまして、もしよろしければ少しだけお邪魔させて頂いてもよろしいでしょうか?」

……好奇心、だろうか。

今までは何とも思っていなかった相手のはずなのに、微妙な胸騒ぎを覚えるのは、先日姜維と交わした会話の内容と、趙雲達と過ごした時に脳裏を過った『視線』のせいなのか。

「おひとりですか」

法正の口をついて出たのは、彼自身にも予想外の言葉だった。

こういう場合、聞くとすればどんな用事かとまずは訪ねてきた目的が第一であり、相手が一人か連れがいるのかなんて二番目以下の優先順位だ。

それなのに。

名無しが女一人で自分の元を訪れたのか、例えば姜維達も傍にいるのかどうかという点が、この時の法正には何よりも重要な確認事項なのだと、頭のどこかでもう一人の自分が囁いている。

「私一人です。法正殿、あの…ひょっとしてもうお休みされていましたか?何だかちょっとお疲れの様子と言いますか、ついさっきまで眠っていらっしゃったようなお声の感じでしたので」

控えめな声で投げかけられる問いが、いかにも名無しらしい。

きっと、困惑を映した瞳で扉を見上げているに違いない。

「いいですよ。少しばかり仮眠していただけですから」
「…!やっぱり。申し訳ありません、とんだお邪魔を」
「構いません。どうぞ中へ」
「ですが…」
「最近暖かくなってきましたが、夜はまだ冷えます。俺は悪党とはいえ、こんな時間にわざわざ訪ねてきてくれた女性を寒空の下に追い返すような真似はしませんよ」

ガチャ、と鍵を外す音がする。

法正の返事に促された名無しが遠慮がちに扉を押すと、そこには普段の緑色の軍事服ではなく、青と紫を基調とした平服を身に纏った法正が立っていた。


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