異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




劉備への忠義に加え、曹操に対する強い怒り、己の人生を賭けた復讐戦が馬超の原動力なのだろう。

すでに全身を洗って清めた後なのか、普段はオールバックにしている髪型とは違い、髪を下した状態になっている。

濡れた毛先が彼の額や頬のラインに沿って張り付いている姿は妙にセクシーで、男らしく整った顔に数滴の滴が流れ落ちる様はまさに言葉通りの水も滴るいい男。

直接的な戦闘をメインとするアタッカーなのだから当然と言えば当然ではあるが、両者の鍛えられた肉体は完全に仕上がっており、同性である法正の目から見ても惚れ惚れした。

「親しき仲にも礼儀ありということだ。今日もそうだろう、馬超。何度も言っているが風呂場では前くらい隠せ」
「ああすまん。隠し事が苦手な性格なのでな、つい」
「そういう問題か?」
「というか、見なければいいと思うのだが」
「見る気がなくても視界に入るんだよ」
「野郎同士なんだから、別に他人の股間など気にすることもないだろう」
「お前の中ではそうなんだろう、お前の中ではな」

全く悪びれた様子もなく反論する馬超に、今度は趙雲の方が嘆息する。

戦場で見せる張り詰めた気配が消え失せ、両者が普通の若者同士のように親しげに会話を交わす光景を見たのはこれが初めてという訳ではないが、仲がいいのだなと法正は改めて実感した。

長い間、互いの背中に命を預けてともに戦った戦友であるのなら、親しい間柄になるのも自然な流れだと言える。

「……あの女は強かったな」
「ああ」

趙雲が馬超に語りかけた『あの女』というのは、征伐した山賊の首領だった。

『あたしだって山賊の頭を張ってんだ。女だと思って甘く見るんじゃないよっ!!』

形勢が不利と見るや一般市民の子ども数人を人質にとり、その中の一人を脅しが本気だと示す為にナイフで首を掻き切って殺そうとしたので、趙雲は止む無くその直前に愛用の槍を繰り出してその女の心臓を貫いた。

「私は、たとえ女であっても武器を手にして戦いを挑んでくる相手に対しては全員一人の戦士として認めているし、舐めてかかったことは一度もない」

趙雲は両手で湯をすくい、手の平の中に出来た水溜りをじっと見つめる。

ここは戦場。

敵対する者であれば男だ、女だ、老人、子どもだというのは関係ない。

まだ10に満たない子供であっても、武器を持てば立派な兵士なのだから。

「だが…、頭ではそう分かっていても、女や少年兵を殺すのは何度経験しても嫌なものだ」

感情を伏せるような声音で、趙雲が告げる。

いくら鍛えていても、やはり男と女、大人と子供では基本となる骨格と筋肉からして違う。

強靭な肉体を誇る成人男性の武人の肉体を切り裂く時と、女子供の肉体を切り裂く時に己の手に伝わってくる手ごたえは全く異なるものだ。

男の硬い筋肉を貫く時に感じる反発に比べ、刃物の切っ先がいとも容易くズブズブと飲み込まれていく柔らかい脂肪と肉の感触は、文字通り『か弱き者』を殺害しているのだという事を嫌でも自覚させる。

「お察しします」

法正は特に驚くこともなく、右手で髪を耳にかけながら呟く。

「誰が悪いという訳ではありません。蜀の将として、趙雲殿は立派に勤めを果たされた。それだけのことですよ」

こういう場合、どんな言い方をしても単なる慰めにしかならないだろう。

相手が悪いと主張するのは簡単だが、だからといって趙雲の気が晴れる訳でもない。

互いに譲れない物があり、守るべき物もあり、相手の命を奪える道具を手にしている以上、無血決着など有り得ない。

たとえ賊であっても本音では女性や少年兵を手にかけたくないのであろう趙雲に対し、法正にかけられる言葉があるとすれば、≪これは任務であり、貴殿がしたことは武将としての務めである≫くらいしかない。

「……ありがとうございます」

それが自分でもよく分かっているのか、趙雲は絞り出すように言葉を続ける。

「武人として弱音を吐きました。先程の発言は忘れてください」

短く呟いたきり、山賊との戦いに関して趙雲はそれ以上何も話そうとはしなかった。

薄い唇を強張らせ、いつもなら他者を穏やかに見つめる黒い瞳も、今は揺れる水面に向けられている。

「……そうだ。法正殿、今晩暇か?」

静寂を破り、突然法正に話しかけてきたのは馬超だった。

「暇、とは」
「ああ。急な誘いで申し訳ないが、将棋がしたくてな。誰かいい相手がいないかと探しているんだが」
「将棋ですか。俺でよければお付き合いしますが、俺よりもそちらの趙雲殿の方がよろしいのではないですか。こと勝負ごとにおいては、俺の戦法は卑怯ですよ」

犬歯を覗かせ、にやりと笑う法正に、馬超が目配せをする。

「構わんぞ。そこの男も大概卑怯だ」
「おいおい…言ってくれるな。私がいつ卑怯な真似を」
「飛車が好きで奇襲ばかりかけてくるしな。斜め移動は好かん」
「別にイカサマをする訳ではないだろう?法正殿と同じく、私のはただの戦法にすぎん」
「冗談だ。まあ誰が相手であろうと、俺は正攻法で勝つ」

バシャッと大きな音を立てて馬超が趙雲にお湯をかけると、趙雲はそれを見越したように素早く上体を反らせて回避した。

正攻法で勝つと宣言するとはいかにも馬超らしいと感じつつ、法正は疑問を口にする。

「しかし馬超殿が将棋を好まれるとは知りませんでした。普段、時間さえあれば鍛錬に励んでおられる姿をお見かけしますので、てっきり体を動かされる方がお好きなのだとばかり」

実際、馬超の発言は法正にとって意外だった。

槍と馬術の名手で、その武者振りの見事さから『錦馬超』の異名を持つ馬超は見るからにパワー型なので、どちらかといえば余暇の過ごし方は自己鍛錬や馬乗りといった方面に時間を費やすタイプだと思ったが。

「戦の後だからな」
「ああ、なるほど。酷使した肉体を休めるためという訳ですか」

それなら話も分かると法正が一人で納得していると、低い声が続けて降ってくる。

「普段は娼館に行く方が多いのだが」
「えっ?」

つい変な声が出てしまった。

馬超とて一人の武人である前に、戦場を離れれば一人の男だ。

未だ女を知らぬ童貞という年齢でもあるまいし、健全な肉体の発達を遂げた成人男性として、同年代の男性と同じ程度に性欲を覚えることもあるだろう。

彼に限って娼館通いなどするはずがないとまでは言わないが、正義感が強く、真っ直ぐな性格であると評判の人物像と『女を金で買う』というイメージがあまり結びつかず、法正は一層意外に感じた。

「……昂ぶるんだ、闘いの後は。どうしようもなく」

訝る法正の疑問に答える形で、馬超が告げる。


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