異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




「それもいいと思いますし、分かるような気もするのですが、私はそれとはちょっと違うんですよね。何も知らない女性といると、正直負担に感じる部分もあるのです。普段自分が何をしているのか彼女に知られてはいけない、自分の世界に彼女を巻き込んではいけないとずっと気を張っていなければならないと思うので」
「……ええ」
「その人と一緒にいる時には普段の役目を全て忘れて、本来の自分でいたい。私だってそうです。だからといって、全く何も知らない相手ではそれも疲れる。話が全然通じない。あくまでも私と同じ世界に属していて、私を取り巻く全ての善意や悪意を認識している上で、私の全てを理解して、なおかつ受け止めて欲しい」
「分かりますよ、それ」

分かる気がする。

自分が普段身を置く世界も含めて、自分の裏も表も、綺麗な部分も汚い部分も全て含めて認めて欲しい。

自分の上っ面しか知らない、見たことがない人間に表面上だけで評価され、あなたが好き、愛してると言われたところで何も嬉しくない。

それならいっそのこと、全てを知っている人間から罵倒され、嫌われる方がまだマシだ。

「そうでしょうか…。同意してくださってありがとうございます。自分でも分かっているんです、わがままですよね、私。でも…、人間って案外そういうものではないですか?」

まるで花が綻ぶように、姜維はふわりと笑う。

ただでさえ端正な顔立ちをした男性の微笑みはそれだけで十分他人を魅了するものだが、この時姜維が見せた微笑があまりにも儚げで、今にも泣きだしそうな悲哀を秘めていたものだから、法正は何とも言えない胸の痛みを覚えた。

彼がただの一般市民であれば、この年頃なら親しい友人たちと馬鹿みたいな会話で盛り上がり、遊びに出かけて、身近な女性とごく普通の恋愛をしてごく普通の関係を持って、青春を謳歌していたかもしれないのに。

法正が姜維の同世代の若者達に対して抱くイメージと、目の前の男が浮かべる切ない笑みは違いすぎた。

この青年は、あまりにも大人すぎている。

「お忙しいところ、長らく引き留めてしまい申し訳ございません」

小さく笑った青年が、深々と頭を下げた。

「名無しの話題も、私個人のどうでもいい身勝手な恋愛論も、法正殿のような智者にとっては全くの無駄話であり、まさに釈迦に説法というもの。若輩者ゆえ、あの高名な法正殿と色々なお話をしてみたいという好奇心と知識欲を抑えられませんでした。どうか数々の失言とご無礼をお許し下さい」

姜維の話し方は、いつも丁寧だ。

蜀の武将の中でも特に親しい関係にある趙雲や馬超といる時に多少砕けた口調になったり、少々毒づく事があっても、基本的にはいわゆる好青年。

そんな彼が、あの名無しという女性と二人だけで一緒にいる時は、一体どんな姿を見せているのだろう。

やはりどこまでも丁寧で、他人行儀な態度なのだろうか。

姜維もまた、彼女のようなお人良しの人間の前では猫を被っているのだろうか。善人のフリをしているのか。

それとも、年相応の幼さを見せることがあるのか。まさかとは思うが、皮肉めいた台詞で彼女を責めることもあるのだろうか。

法正は、少しだけ興味を抱いた。

「何を仰いますやら。自分にはない視点でしたので、非常に勉強になりましたよ。もし姜維殿が諸葛亮殿と同じく俺を内心嫌っているのだとしても、別に構いません。俺もそうですから」
「ははっ、法正殿は正直なお方だ。そのような性格、分かりやすくて好きです」
「あなたと違って?」
「ご明察」

澄ました顔で断言して、姜維は頷く。

これのどこが好青年だ。

法正は先程の考えを否定しようかと思ったが、顔のいい男に対しては女どもの見る目や評判なんて何の参考にもならんなと内心馬鹿にするに留めておいた。

諸葛亮の事は好かないが、彼の有能さは認めている。姜維に対してもそれは同じ。

所詮世の中は実力主義だ。使える人間であればそいつの本性なんざどうだっていい。

他人を批判するには、批判する方にもそれ相応の実力が必要だ。

「それでは、これで失礼いたします。もし丞相をお見かけしましたら、私が探しているとお伝えして頂けますと助かります」
「ああ、承知しました。俺が言うのも何ですが、人間どこで恨まれるかは分かりませんのでね。姜維殿も、くれぐれも背後にお気をつけて」
「肝に銘じます」

同僚としての気遣いなのかただの皮肉なのか読めない法正の言葉を物ともせず、姜維はゆったりと微笑む。

今に見ていろ。この借りは必ず返すからな。夜道に気をつけろよ。お前なんか殺してやる。

他人からそんな呪詛を浴びせられるのも、戦時中では日常茶飯事。

そういったものを全て跳ね除け、時には力ずくで抑え込み、笑って受け止めることが出来る者だけが勝者になれる。

「今この時も、毎日どこかで死人が出ていますから」

すでに背を向けて歩き始めた法正に向かって、姜維はにっこりと笑う。

「おかげで一人当たりの仕事量は増えるし、軍は常に人手不足です。嫌になる事も多いですが、お互い頑張りましょう」




法正が一日の仕事を終えて夜遅くに城内の大浴場に向かった際、戸を開けて中に入ると、すでに先客が二名いた。

「おや、これは…」
「被ったな」

法正の姿に気付き、声をかけてきたのは趙雲と馬超であった。

「申し訳ない、法正殿。先に湯を頂いています」
「お気になさらず。というよりも、俺より趙雲殿達の方がよほどお疲れでしょう。俺の事は無視して、心行くまでゆっくり浸かっていてくださいよ」

一週間ほど前に近隣の地域で山賊による市民への強奪事件が頻発しているとの報告が蜀軍に入り、数名の武将達が制圧に向かっていた。

その中に趙雲達もいたのだが、無事に任務を終えて本日帰城したようで、劉備への報告を済ませた後で彼らが風呂に入っていたところに丁度タイミングが重なったらしい。

「有難いお言葉、恐縮です。馬超、お前も法正殿のお心の広さと細やかな気遣いを見習うといい」
「何で俺がお前に余計な気を遣わねばならんのだ」

蜀の五虎将。

関羽・張飛・黄忠に彼ら二人を加えた5人は蜀の五虎大将軍と呼ばれ、戦場ではそれぞれが軍を率いて戦う勇猛果敢な武将達である。

流れるような黒髪を後ろで一つに束ねた髪型の趙雲は主への忠義に厚く、誠実な若武者。

文武両道なだけでなく、精悍な美男子で、戦場では華麗な槍さばきを見せる負け知らずの勇将。

周囲の者からの厚い信頼、戦場での華々しい活躍、高い女性人気。

彼の評判を挙げれば挙げる程に、羨ましく思えるくらいにハイスペックな男性だ。

趙雲の隣で溜息を漏らす馬超は漢中の軍閥出身で、彼もまた趙雲に引けを取らない蜀が誇る猛将であり、彼の一族を殺した因縁の相手である曹操とは激しい戦いを繰り広げていた。


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