異次元 【熱視線】 「言ってくれ。俺と君の仲だ。大丈夫、決して悪いようにはしない」 しかし、それでも宗茂は言うのだ。名無しに問うのだ。 名無しの精神が崩壊するのに十分な、破壊力を秘めた残酷な言葉を。 「もし大切な友人である君を泣かせる男が同じ城の中にいたとしたら、俺はそいつの事が絶対に許せない」 大切な友人である君 君を泣かせる男がいたら俺は絶対に許さない それは、とどめの一言だった。 宗茂の言葉は、彼にとって名無しが一人の女性ではなく『大切な友人』の域を出ない事。 そして名無しがこんな風に悲しんでいる原因は自分とは全く別の所にあって、彼女の気持ちや苦悩など全く通じていないという決定的な通告であった。 まるで、死の宣告。 この瞬間、この場でバタリと倒れ、本当に死の呪文を囁かれたように死んでしまえればどんなにいいだろうか。 きっと名無しが倒れたその直後、宗茂は慌てて彼女の体を抱き起こそうとしてくれるだろう。 自分の思いは通じなくても、愛する男性の腕の中で息を引き取ることが出来たなら、それはそれで最高の事のように思える。 宗茂に出会ったあの日から、彼への恋心に気付いたあの日から。 そしてねねから宗茂とギン千代との結婚の話を聞かされたあの日から、名無しはずっと毎日微量の毒を飲んでいるような状態だった。 それは、決して一撃では死ねない毒。致死量に至らない程度の毒。 でも、名無しの心身を破壊するには十分な量の毒と飲用期間。 それは今日この日まで、名無し自身でも自覚していないくらいにゆっくりと、確実に、彼女の魂を蝕んでいた。 ここにきて宗茂とのこの接触。結婚式に来てくれと、司会も頼むという要望。君は友達≠ニいうこの言葉。 限界だった。 「───どうしても知りたい?宗茂」 「ん……?」 「ねえ、宗茂。本当に知りたいの。私が何でこんな顔をしているのか、そんなに知りたい……?」 何でもない事を尋ねるように、名無しが笑う。 でも、本当に笑っているのではない。名無しの口元は微かに引きつっている。笑おうと努力しているだけだ。 普段の名無しとは全然違う今の名無しの雰囲気に、宗茂の心臓がドクンと跳ねた。 切ないような、苦しいような、絶望しきっているような、それでいて宗茂に縋っているような、一縷の救いを求めているような何とも形容しがたい複雑な名無しの表情。 いつも穏やかで優しい笑みを浮かべている彼女が見せた、この時だけの別の顔。 自分の知らない新しい名無しを目の当たりにしたような感覚に陥り、宗茂は思わず吸い寄せられるようにして彼女の揺れる瞳と赤い唇を見つめていた。 「私、今……好きな人がいるの」 我慢が、出来なかった。 本当は黙ったままでいようと思ったのに。 この時の名無しの唇からは、まるでその言葉自体が逃げ場を探すようにして、悲痛な告白が外の世界へと飛び出した。 「でも、その思いはもう絶対に叶う事がないってつい最近知ったの。その人はあと半年したら、ある家の正式な跡取りとして就任するっていうことを。私なんかとはとても比べものにならない素敵な女性と結婚してしまうってことを」 たまらずに言い募る名無しの顔を、宗茂が凝視する。 「でも、好きな人も、相手の女性も、同じ軍の人だから。どちらの事も大好きで、同じように大切だから。だからこそ心の底から応援したくて、素直におめでとうが言いたくて……。でも苦しくて、切なくて、その人の事を考えるだけで頭の中がぐちゃぐちゃになって。自分が今一体何をしたいのか、もうどうしようもないくらいに自分で自分が分からなくて……!」 宗茂が息を詰めた気配が、名無しにも分かる。 今、彼はどんな顔をして自分を見つめているんだろう。 どんな気持ちで、自分の告白を聞いてくれているんだろう。 でも、そんな事などもはやどうでもいい。 己の気持ちをコントロールできず、名無しは積もりに積もった思いの丈を宗茂に向かって打ち明けた。 「大好きなの。自分でもどうすればいいのか分からないくらいに、その人の事が大好きなの」 名無しはそう告げると同時に宗茂の服を掴み、握り締めた指先に力を込める。 名無しは何度も何度も宗茂の体を前後にガクガクと揺らす。 この憤りを一体どこにぶつけていいのか分からないとでも言うように。 そして当の宗茂本人もまた、そんな名無しの行動を何も抵抗せずにただ黙って受け入れている。 彼女の憤りを一体どう受け止めて良いのか分からないとでも言うように。 「私、本当はよく分かっているの。もう結婚する人にこんな気持ちを抱いちゃ駄目なんだって。諦めなきゃいけないって分かっているけど、それでもやっぱりあなたの事が大好きなの。好きで好きで仕方ないの……!!」 言い様、名無しは宗茂の服から手を離すと、今度は両手で拳を作ってドンドンと男の厚い胸板を数回叩く。 名無しのような女の力でどれだけ叩いても何の意味もない、びくともしない逞しい体だと知っていて。 普段は羨望の眼差しを向けていた頑強な男の肉体が、今日はこれ以上ないくらいに憎らしく思えた。 『うっうっ…』と名無しが嗚咽を漏らす度、彼女の手の平が重力に引かれるようにしてズルズルと宗茂の胸板から腹筋まで緩やかな速度で滑り落ち、やがて動力を失った機械人形のように彼の腹部でピタリと止まる。 そしてその後、彼女はもう我慢の限界だとばかりに男の胸の中で泣き崩れた。 堰を切ったように、わあわあと泣き崩れた。 自分の目の前で繰り広げられているその光景を、宗茂は固唾を飲んで見下ろしていた。 何も言わずに。 (馬鹿げている) 宗茂と正面から向かい合う形で泣いている間、名無しはずっとそんな事を考えていた。 名無しがこんな風にして宗茂を叩いてもしょうがない事。今更好きだと訴えても仕方ない事だと名無し自身十分承知していた。 どうにもならないこの感情。 自分の気持ちになんか全く気付かずに結婚式の司会まで頼んできた宗茂。 そしてこんな風にしてみっともなく泣き崩れている己自身の不甲斐なさ。全てに腹が立って涙が出る。 けれど、こんな風に泣いてしまうのだけはイヤだ。 大好きな人の目の前で、こんな風にして無様な姿を披露してしまう事だけは本当にイヤだと思っていたはずなのに。 [TOP] ×
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