異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




果たしてどこまで知っているのだろう。どこかから噂で聞いたという程度のものか。

それとも、すでに関係者から確実な証言を取った上での問いかけなのか。

(諸葛亮殿や姜維殿相手とあれば、彼らほどの人物が何も気付いていないとは考えにくい)

諸葛亮達が持つ独自の情報網の精度の高さには、法正も目を見張るものがある。

その上、その情報網のトップである諸葛亮や姜維自身が非常に切れ者であり、勘が鋭い男性ときている。己の行動が微塵も漏れていないとは思えない。

法正にとって、最も忌むべきパターンは『裏交渉』の内容が敬愛する劉備の耳まで届くことだ。

天下を総べる上でどうしても必要な武器や人材、資金を集めるための行為だと釈明すれば他の参謀たちや一般武将からも一定の票は得られるかもしれないが、それでもおそらくあの清廉潔白な劉備は悲しむだろう。

(こいつ、どういうつもりだ)

もし俺を嵌めるために上層部に密告するというのなら、殿やこの国の未来の為に骨を折ってやっている奉仕行為を妨害するというのなら、その恨みは骨髄に達する。

この若造……。

「喧嘩を売ってきているというのであれば、買うが」

臆することなく視線を受け止め、法正が応じる。

「俺は恩義に対しては報いるが、とにかく性悪で、執念深く、恨みを決して忘れない性格の持ち主だということくらい、諸葛亮殿であれば十分承知しているはず。邪魔立てするというなら、倍にして返してやろう」

不愉快そうに鼻面に皺を寄せる法正の面持ちからは、先刻まで姜維に見せていた外向けの笑みがなくなり、一切のぬくもりが消えている。

「これは異なことを。なぜ丞相や私が法正殿の邪魔をするとおっしゃるのです?我が殿の為、法正殿が各地を訪れて奮闘していらっしゃることは私もよく存じております。その多大なる貢献と殿への深い忠誠心を称賛こそすれ、否定するつもりなど毛頭ございません」

法正の怜悧な眼光で睨みつけられても全く動じず、姜維はくすくすと笑う。

「適材適所という言葉があるように、法正殿は法正殿にしかできない方法で殿へご恩返しをしていらっしゃるだけの話。同じ理想を掲げる者として、法正殿ほどのお方にそこまで尽力して頂きお礼を述べなくてはいけないのはむしろこちらの方ですのに、どうして責めることができましょう。違いますか?」

状況や相手に応じて手段を変える、清濁合わせ持つというのも軍師に求められる必要悪の要素だが、彼の口ぶりからするとどうやら法正のしていることを黙認している。

人間、綺麗ごとだけでは生きていけない。飯は食えず、戦も勝てない。

自分と同じく、彼らもそう認めているということか。

(なるほどな。あの諸葛亮殿に見出された人物だというだけはある)

一見優等生に見せかけて、姜維という男性はただのイイ子ちゃんという訳ではなさそうだ。

「……以前、あなたに名無しの人物評について尋ねられたことがありましたね」

そうだった。

劉備に仕えるようになってまだ日が浅い頃、情報収集の意味も兼ねて、軍に所属する同僚武将の中であまり知らない数人の人物像に関して、彼にいくつか質問をしたことがあったのだ。

その中に名無しも入っており、姜維から返ってきた説明は『まあ、一言で表せばとても善良な女性だと思いますよ』とか、『誰にでも優しい方ですね』とか、至極当たり障りのない内容に終始していたと思ったが。

「変わらないんです、名無しは。初めて出会った時から今までずっと。何年経っても」
「……?」
「この城に来て、私たちとともに殿の為に働きながら、嫌なことも沢山あったと思います。利権と出世欲、派閥の入り混じった城内でも、血生臭い戦場でも、辛いことも、見たくもない光景も沢山目にしてきたと思います。それこそ普通の女性であれば、とっくに心が折れているくらいに」

静かに語り、姜維はそっと目を伏せる。

「それでも名無しは変わらない。無論、全く同じとは言い切れませんが、彼女を構成する上での重要な部分は大きく変動していない」

それはこの戦乱の世で非常に貴重なことなのだ、と姜維は話す。

「この仕事をしていて分かったのは、戦場に出て、多くの仲間を失い、身も心も傷ついて疲労困憊して命からがら城に戻ってくることが出来た時に、常に変わらない態度で温かく迎えてくれる存在というものがどれほど大きなものかということです」
「それは…俺のような悪党にもよく分かります」

姜維の意見に、法正は素直に同意した。

大切な家族や仲間の死に直面した時も、身内の裏切りに失望した時も、常に寄り添い、包み込んでくれる存在がいる。

自分がそういう存在を求めているかどうかという話はまた別として、広く一般論として考えてみれば、そのような存在には励まされる、力を貰えると主張する人々もいるだろう。

「よく、普通の男性が家に帰ったら恋人や妻、子供が出迎えてくれて心が休まるとかいうではないですか。その気持ち、なんとなく私にも分かるような気がするんですよね」
「ああ、よく聞きますね。正直ありきたり過ぎて食傷気味ではありますが」
「ただ一つ、そういった人々との違いを述べるのだとすれば、我々が身を置いている世界の厳しさや戦場で負う損傷はそんな一般人の比ではない、ということです」

姜維の言う通り、戦争を経験した兵士や一般市民があまりの悲惨さに精神を病み、毎日悪夢にうなされ、フラッシュバックを経験し、廃人と化す例は数えきれないほど多い。

そういった世界を経験した男性、そしてまさに今この瞬間その渦中に身を投じている男性を受け止め、ケアすることは普通の女性には到底困難で荷が重いだろうと思われる。

「先程の例に加えて、自分とは全く違った世界に住んでいる相手の方がいいっていう男性もいますよね。恋人や妻は自分がどういう仕事をしているのか、何をやっているのか一切知らない。だからこそ安心できる。彼女と一緒にいる時には普段の役目を全て忘れて、本来の自分でいられるというような」

前髪を指で払い、姜維が何かを思案するような顔つきを見せる。

その瞬間、微かに空気が変わった気がした。

法正の目から見ても気のせいかと思えるほどの、ささやかな変化だ。

淡々と語る若者の目の色が、今までの知的で大人びたものとは異なり、年相応ともいえる幼さを僅かに取り戻したように思えて。


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