異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




「ほら、あるじゃないですか。気の置けない友人、好みや性格が自分の理想にピッタリの同性に対して『お前が女だったら絶対に惚れているのにな』とか、『あなたが男性だったら絶対に付き合っているし、何なら私の方から求婚だってするのに!』とか」

どこまでものびやかで、軽い世間話のような声のトーンで姜維が語る。

「どうしてこの人が女じゃないんだろう。どうして男じゃないんだろう。そう思う相手って、稀にいますよね。同性であれば単なる尊敬、友情の域を出なくても、異性だとすればそれとはまた違った種類の思いを抱くことは十分考えられることです」

屈託のない笑い声を上げる姜維の前で、法正は口元を引き締める。

そんな風に考えてみたことなど、一度もなかった。

名無し殿は劉備殿に似ていると。

自分が認め、信頼し、生涯をかけてお仕えすると決めた主君と心持ちが似ていると。

名無し殿に性≠感じたことなど一切ない。

先日目にした文宋や他の交渉相手達と同様に、爛れた欲望の投影相手として彼女を見たことなど、ただの一度も存在しない。

……本当に?

「生憎、そんなことは考えたこともありませんよ」
「考えたこともない≠ナはなく、あえて考えないようにしている≠フ間違いではないのですか」
「……。」
「どんな悪党でも、この人の前ではいい人のフリをしていたい、猫を被っていたいと思えるような人間が一人くらいはいるものです。あなたにとってはそれが殿。悪意を向けるべきではない、決して侵すべきではない聖域。殿に対してそう考えているのだとしたら、殿に似た女性に対しても無意識にそう考えるだろうというのは、それほど飛躍した論理だとは思いませんが」
「……。」
「法正殿にとって彼女は…もとい、殿と同じ性質を持つ女性は侵されざる聖域なので、好みのタイプではない、異性として感じないと思い込むようにしている=v

我々男性陣からすれば、本命にしたい、大切にしたいと思える女性と性欲を覚える女性は全く別だったりするものです。

付き合うだけならこういう女性、激しいセックスをするだけならこういう女性、都合のいい女扱いするならこういう女性、でも結婚相手に選ぶのはこういう女性がいいなとか。

それって男性だけではなく、女性側だって似たようなものではないですか?

当然のことながら、女性の属性に関わらず、痴漢や性的暴行といった行為は全て悪しき行いです。

ですが同じ女性に対する狼藉といっても、相手によってさらに強い非難を浴びる場合があります。

それが仏や神に仕える尼僧や修道女であったり、まだ年端もいかぬ少女の場合は一層世間からの風当たりが強くなる、と姜維は言う。

よりによって、そんな相手を凌辱しようとするなんて、一層罰当たりな行為であり、罪深い行為であるのだと。

「善なる者、無垢なる者を汚すことに罪の意識を感じるのと同じように、殿に似た女性にそんな感情は抱かない。悪党と呼ばれるあなたの中に残された一般常識や道徳心、良心の名のもとに」

姜維は真顔で語り、そこで一旦言葉を切ると、まるで法正の心の奥底を見透かそうとするような目付きで男の顔を覗き込む。


「───許されませんよ。そんな嘘」


ゾッとした。


息が詰まった。


自分よりもずっと年下の武将に正面から詰め寄られ、ひやりとしたその双眸の輝きに、法正は二の句が継げない。

「共に仕事をする相手、志を一つにする相手を性的な目で見てはならないという下らない理屈など、犬にでも食わせてやれば良いのです。大切なのはそれ≠手に入れることで、己が何を得られるかということなのです。心の平穏、安寧、ときめき、興奮、劣情、性的満足、絶頂……どれも結構」
「……。」
「異性に心を惹かれる、その現象を人はすぐに恋≠セの愛≠セのと呼び、型にはめたがるのですが、あんなものの何がいいというのです?」

きっぱりと告げた姜維が、ふうっ…、と短く息を絞る。

「焦がれ、苦しみ、嫉妬し、いずれは重みで沈む。それ≠ヘあまりに残酷です。限度を超えた深い愛情はもはや嵐と同じ、本人にすら制御不可能な暴君です。茨の棘のように心を突き刺し、人を破滅へと駆り立てる……」

真っ直ぐに自分を見つめる姜維の目は、法正がよく知る『礼儀正しい好青年』のそれではない。

「姜───」

見覚えのある双眼の色に、ゾクゾクッとした寒気が走る。

「ですから」

射るような強いこの眼差しは、普段の姜維ではない。

戦場を縦横無尽に駆け抜け、鋭利な槍の先端で敵の心臓を貫き、情け容赦なく屠る時の戦士の目だ。

「同性であれば思いもよらない感情も、異性相手であれば許される。好きだから≠ニいう全てに使える都合のいい理由をもとに、何をしても…。相手の許可さえあれば、否…、最悪、許可すらなくてもね」

天使の笑みを浮かべつつ、姜維は淡々と告げる。

こんなものは、ストーカーやレイプ犯といった犯罪者側の思考と相違ないではないか。

法正はそう指摘したい衝動に駆られたが、同時に発言者があの姜維であるということを思い出す。

その辺にいるごく平凡な、頭の悪そうな若者が語る個人的感想とは訳が違う。

(相手が俺だから)

わざと、言っているのか。

カマをかけられている?どんな反応が返ってくるのか待っている?俺を煽って、本心を引き出そうとしている?

理屈ではなく、直感でそう思った。

「……これはまた、お綺麗な顔をして随分過激なことを仰いますな。諸葛亮殿の自慢の弟子であるあなたともあろうお方が、そのような悪事を肯定するとは」
「ふふっ。悪事?ご冗談を。悪に属する行為など、法正殿に比べてみれば、私などまだほんの子どものままごとに過ぎません」

姜維の発言が意味することを、理解したのだろう。

他人からは分からない程度に眦を吊り上げた法正を見据え、姜維は淀みなく言葉を続ける。

「丞相にお聞きしましたよ。法正殿といえば、正攻法ではどれだけ説得を重ねても頑として首を縦に振らない曲者達を相手にして、次々と協力を取り付けることに成功していると。さすがは法正殿ではありませんか」
「……。」
「丞相や私には無理な交渉もやすやすとこなされる。その手腕、実にお見事でございます。法正殿さえお許し下されば、この姜伯約、後学の為に交渉の場に同席させて頂けると有難いのですが」
「……。」
「海千山千の強敵に対し、どのようにして揺さぶりをかけるのか、是非ご教授頂きたく存じます。先に誓いを立てておきたいのですが、法正殿の邪魔は一切いたしません。……如何でしょうか、法正殿?」

間違いない。

この若者は、影で自分が行っている『交渉』の内容を知っている。


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