異次元 【茨の檻】 確かに、彼の師にあたる諸葛亮と自分は性格的に馬が合わない。それは城内の誰もが認める事実だ。 しかしながら、公の場では互いに批判したことなどないし、それぞれの実力に関しては認め合い、他者の前でも正統な評価を下しているつもりだ。 仮に諸葛亮と自分が明らかな犬猿の仲だとしても、そのようなことでこの賢い青年が面前で負の感情を見せるとは思えない。 例え尊敬する師と対立する関係の相手であっても、表向きは礼節を忘れない。彼はそういう男である。 (……俺と名無し殿の仲を疑っているとか?) たとえば、実は姜維は職場恋愛に対して否定的な立場であり、そういったものに嫌悪感を抱く価値観の持ち主であると仮定しよう。 以前はそれほどでもなかったが、ここ最近法正と名無しは共に行動する機会が多くなった。 しかしそれはただ単純に偶然食堂で一緒になる事が多かったり、互いの抱える案件が重なって討論する場面が増えたりと、あくまでも仕事上の理由に過ぎない。 先程の仮定が当たっているとすれば尖った視線にも納得出来るが、どちらにせよ名無しと自分はただの同僚。 姜維に勘ぐられて困ることなど何もない。 「どうかされましたか、姜維殿」 「え……?」 「いえ別に。何やら鋭い視線を感じましたのでね。いくら俺が悪党でも、さすがに同僚女性に対して狼藉を働くような真似はしませんよ」 姜維の疑念を払拭するため、法正は笑いながら軽く頭を振る。 法正が顔を上げると、姜維と視線がかち合った。 「……ふふっ」 ───背筋が凍えるような嘲笑。 弁明する法正に、姜維はにこやかな笑顔で応じた。 それなのに、全身がぞっとするこの感覚は一体何だろう。 「……なるほど。狼藉?狼藉ねえ……」 姜維は法正に微笑み、男の台詞の意味を吟味するかの如く繰り返す。 まずい、と思った。 自分は何か回答を間違えたのかとも。 「ええ、ええ、そうでしょうとも。法正殿はそのようなことをなさいませんよね。彼女に下劣な感情を抱くなど、決して有り得ませんよね?」 皮肉めいた姜維の言葉に、法正は戸惑う。 それではまるで、他にはそういうことをする男がこの城内にいる≠ニでも言いたげな物言いではないか。 「……姜維殿?」 「そうですね、それが普通の反応ですよね。同僚女性に狼藉を働く輩などただの獣。到底我が国の武将とは言えません」 姜維はゆっくりとした動作で、額にかかる前髪を掻き上げる。 視界に入った彼の手は、意外と綺麗な指先だった。 戦場で槍を振るう男武将という割に、まるで琴を奏でる奏者のように指が長く、形良く整えられた爪の形をしていた。 「ですが、獣はどこの世界にも存在する。身分や職業に関わらず、男など下着を脱げば総じて狼です。名無しが危険な目に遭うことのないように、是非とも法正殿が守って下さるといいのですが」 唇だけで笑う美青年が、芝居がかった仕草で首を傾ける。 「ああ…、把握しました。俺は悪党ゆえ、名無し殿と組んで仕事をするには信用ならないと」 「そんな、とんでもない。法正殿は見ての通りの色男ですので、女性に飢えているようには思えません。あなたの方から女性に手を出すというよりは、むしろ積極的に寄ってくるのは女性側だと思いますし」 「これはまたむず痒いことを。顔が良いのもモテるのも、あなたの方が上でしょうに」 「ですが…」 「ですが?」 「私の見立てでは、名無しみたいなタイプは法正殿の好みにドンピシャだと思いましたので。おそらくお好きでしょう、ああいう女性」 「……はあ?」 姜維の問いに、法正は思わず息を飲む。 決して図星だからという訳ではない。 むしろ逆に、あまりにも予想外、想定外すぎる質問だったので、法正ともあろう男にしては珍しく思えるくらいに硬直した。 「驚きました。法正殿みたいな男性でも、そんな顔をすることがあるのですね」 おかしそうに笑う姜維の美貌は、さながら夜空を照らす月のようだ。 一片の曇りもない太陽とは違う、どこか愁いを帯びた切ない微笑。 対して、話題に上がっている名無しが身に纏うオーラといえば、まさに大地を暖かく照らす太陽だった。 誰に対しても柔和な態度で接するのは姜維と同じだが、名無しの場合はもっと慈愛に満ちた、善意の眼差しで常に他人を見つめている。 自分とは正反対に属する清廉な青年に見える姜維が人々の好意を得ているのと同様に、名無しの優しさに心を癒され、好感を抱く者も多いだろう。 「どうですか」 意味深に目元を細めた姜維が、再度問う。 どう、とは。 優しい女性だとは思う。だが、自分の好みとは全然違う。 どちらかといえば自分が食指をそそられるのはもっとこう、大人の女性の色気に満ちていて、見るからに肉惑的な体付きをした美味そうな美女だ。 なので、いい人だとは思っているが、名無しには女≠感じない。 見方によっては失礼な発言とも思える本心を、普段から彼女と仲が良さそうに思える彼の前で素直に答えてよいものか。 (あの諸葛亮殿の弟子的な存在とも言える男にしては、いささか的外れな質問だな) その程度の洞察力しかない、つまらない男だとは思わなかったのだが。 どう回答するのか迷う法正の気持ちを遮るようにして、姜維が再び疑問を口にする。 「法正殿は、劉備殿をお慕いしていますよね」 「……は?」 「いや、失礼。ちょっと誤解を生むような言い方でしたね。同性愛的な意味ではなく、同じ男として尊敬している、あの方という一人の人間をお慕いしているという意味です」 そんなこと、言われるまでもないことだ。 おそらくこの城にいる者であれば、自分がどれほど劉備という男を信頼し、彼に心を寄せているのか知らない者はいないだろう。 「ですから、そう思ったのですよ」 「それがどうしたと…」 「そうですねえ。一言で申し上げるなら、名無しは『劉備殿の女性版』みたいな性格をしているからです」 「───!?」 まさに、青天の霹靂。 こいつは一体何を言っているのだ、と。 そう思ったのはほんの一瞬だけで、法正は自分でも驚くべきほどの早さで姜維が言わんとすることの意味を理解した。 [TOP] ×
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