異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




『一線を越える』という言葉があるが、意味は踏み止まるべき範囲を外れて≪するべきでない、してはいけない事≫に及ぶことだ。

友人関係だった男女が性行為に及ぶ、決まった相手がいる上での浮気や不倫、言ってはならない不適切な発言をする、暴力を振るう、犯罪に手を染める等々。

だがその境界線や越えやすさの度合いは個々の価値観によってバラつきがある。小さな嘘を吐くだけで強い罪悪感を抱く者もいれば、平気で人を殺す人間もいる。

それらを越える者と踏み留まる者の違いは、いわゆる『良心』だの『理性』辺りの強さといったところか。

俺が思うに、それらは茨で造られた檻に似ている。

檻を破壊しようと無理に体当たりしたり、こじ開けて出ようとすると茨の棘で自分の『良心』が傷を負って痛むので、普段は大人しく善人面してその中で座っているという訳だ。

名無し殿。あなたの身を拘束する茨の檻は、あまりにも堅牢で、荘厳だ。

そして、ご自身を包む『良心の檻』がなまじ強固なのが災いして、きっと他の人間も同じだろうという何の根拠もない希望的観測を抱いている。我が殿のように。

至極当然の事ではあるが、この世の中、殿やあなたのような善人はむしろ少数で、多数を占めているのは俺のような悪党だろう。

あなたにとってこの城内は、同じ主君に仕え、志を同じくする仲間達や信頼出来る友人ばかりだと思っているのかもしれないが、残念ながらそれは幻想に過ぎない。

長引く戦争、親しい者や愛する者達の死、湯水のように使われる戦費、焼け落ちる民家の光景は人の心を疲弊させる。付け加えるなら、楽しみが少ない割に女っ気が少なく男の多い環境も同様に。

平時であれば「なんて残酷な事を、人でなし!」と多くの国民から非難され、死刑に処される殺人行為も、戦争中においては全く真逆の価値を生む。

罪に問われるどころか、より多くの敵を殺した者は国を挙げての尊敬と賛美の対象。我が軍には、そんな疑う余地のない『英雄様』が数多く所属している。

どいつもこいつも有能な人材で、一見普通の人間と大差ない常識を備えた生き物に思えるが、全員頭のネジがどこか外れている。要するに高度な擬態の持ち主ばかりだ。

こいつらの良心とやらがどこまで保つかは不明だが、俺の見立てではいつ本性を現して檻から出て来てもおかしくない。

各自神妙な顔付きで茨の檻の中に籠ってはいるが、蹴破ろうと思えばいつでも実行できる。

あなたの前では猫を被り、人畜無害を装っているだけ。言ってみれば、脱獄一歩手前のニセ模範囚だ。

ああ……、たまらない。俺の中では劉備殿に似て白い心を持つ名無し殿が、そんなケダモノ達の爪と牙で蹂躙されてしまうのは。

世にある様々な物語や歴史を振り返ってみても、善良な人間は悪党に騙されたり、裏切られたり、利用されずに平和な生涯を全うできた試しはない。



────ならば悪党の名に恥じず、いっそ俺が汚してしまおうか。



今日に至るまであなたとの間に築き上げてきた人間関係や、流れを全部無視して。



この不義には相応の報いがあるだろうが、それであなたを他の悪人どもから保護出来るというのなら、甘んじて受け入れるべきものだろう。

あなたに良からぬ思いを抱く輩に、俺の存在を気付かせる。強い雄の匂いがする雌に弱い雄は寄ってこない。これは自然界の法則だ。

そもそも俺のような悪党が敢えて矢面に立とうと考えるくらい、その雄どもは強力で、一筋縄ではいかない奴らに狙われている身なのだということをどうか察して頂きたい。

大切に大切に保管され、誰も触れない容器の中で咲く花もそれはそれでいいですが。

茎の根元から残酷に摘み取りもぎ取られ、その花弁を切り刻んで押し潰され、人間の身勝手な目的の為だけに生け花や香料としてその命を消費されるのも、やはり花の哀れな宿命というもの。

それならば、せめて自分に出来得る限りで名無し殿から苦痛を消し去り、快楽のみを与え続けよう。残念ながら、これがあなたより賜った多大な親切に対して俺に出来る唯一の御恩返しというものです。罰ではありません。褒賞ですよ。

今、ここには罪人が収容された複数の檻があり、あなたの周囲を取り囲むように設置されている。

怯えた顔で中心部の見張り塔からそれらの錠前を眺め、脱獄犯がいないか確認し続ける不安な日々を余儀なくされているのはあなた一人。……まるで世間から隔離された監獄島だ。

金属同士が擦れるような鈍い音がして、俺が居る檻の扉が開く。

ここから一歩先に進めば文字通り俺の人間性は失われ、あなたとの関係が『一線を越える』。



この法考直と遊んでくださいますか、名無し殿。



他の檻も解錠される前に、今のうちにたっぷり味わっておくとしよう。





─────全ての野獣が解き放たれて、メチャクチャになる前に。





─法正夢・【茨の檻】


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