異次元 【熱視線】 「半年後というと結構先のようにも感じられるが、あれこれ準備をしていると意外と短い。式をどうするか考えなくてはならないし、招待する人々の人数も掌握しなければいけないし、招待状も書かなければいけないし、引き出物も用意しなくてはならないし……。なんだかんだ言いつつ、これからは忙しくなりそうだ」 名無しの横で単に事実を述べているだけのような宗茂の口調が、辛い。 淡々と彼が結婚式に向けての準備内容を語れば語るほど、それが夢ではなく現実の出来事なのだと認めなくてはならなくて辛い。 自分とギン千代は半年後には正式な夫婦になるのだと、正面から宣言されているようで、辛い。 (宗茂……っ) 声にならない思いを抱き、名無しは心の中だけで苦しげに男の名を呼ぶ。 今貴方は、こんなにも私の近くにいるのに。 手を伸ばせば、届きそうな距離に貴方はいるのに。その髪に、手に、体に触れる事も出来るくらいに近くにいるのに。 でも、こんなに近い距離で身を寄せていても、私と貴方は赤の他人。貴方の妻になるべき女性は、別の人。 私よりもずっと綺麗で、美人で、強くて、凛としていて、同性の自分から見ても憧れの人。宗茂に相応しい素敵な人。 こうして同じ時に、同じ場所で、肌が触れそうなくらいの近い距離で、同じ夜空を見上げているのに。 それなのに、今隣にいる貴方は誰よりも私の近くにいるようでいて、実は一番遠い人─────。 「……そうだ。もし良かったら君も俺達の結婚式に来てくれないか?仲のいい君が来てくれたらギン千代もきっと喜ぶだろう。君なら俺の義父も喜んで招待状を出す。どうだ?」 ……パキン。 宗茂がそう告げてにこやかに名無しを見た直後、名無しの中で何かが弾けた。 「ええ。是非招待してね。大好きな宗茂とギン千代の事だもの。私、目一杯お祝いするから!」 「本当か?それは有り難い。……ついでといってはなんだが、もし君さえ良ければ結婚式の司会も頼みたい。新婦側の友人として……。ダメか?」 嬉しそうに弾んだ宗茂の声が、彼の放つ言葉の全てが、名無しの精神をさらに、これでもかというくらいに追い詰める。 ……壊れて、いく。 自分の中で、何かが、確実に……砕け散っていく。 ばらばらと、心が粉々に破壊され、ガラスの破片のように下に落ちていく。 あるいは崩壊した砂の城のように、さらさらと冷たい砂が底に広がる暗闇の穴に向かって流れ落ちていく。 名無しの中で、『何か』が壊れた音がした。 「う…、ん……。いいよ、宗茂。こんな私で良かったら……」 「何を言っているんだ。俺にとってもギン千代にとっても君は大切な友人だ。君に祝って貰えて嬉しい気持ちがありこそすれ、不満なんてあるものか」 「そう…?嬉しい。じゃあ張り切って司会の言葉を考えなくちゃね。二人の門出を祝うに相応しい、何か素敵な文章を考えなくちゃ……」 宗茂の問いに答える名無しの声が、徐々に弱く、震えていく。 震えているのは声だけじゃない。両膝の上に置かれた彼女の手も、ブルブルと震えている。 こんな状態の名無しを救っていたのは、ひとえに夜の闇だった。 すぐ隣同士に座っているとはいえ、明るい昼間と違って暗い闇に包まれた夜の世界では互いの表情の細かい部分までは読み取れない。 だからこそ宗茂とここまで会話を続ける事が出来たのだが、宗茂はここにきて名無しの様子がおかしい事に気が付いた。 ふと視線を落として彼女の手を見ると、名無しの両手はグッと何かを堪えるように硬く握り拳が作られており、小刻みに震えている。 「……どうした?」 宗茂の声のトーンが変わった事に気付き、名無しはハッと顔を上げた。 すると、咄嗟に宗茂が名無しの顎を長い指先で捉えてさらに自分の方へと上向かせ、名無しの顔を覗き込む。 「なんて顔をしているんだ。どうして君がそんな悲しい顔をする?」 「む、ねし、げ……」 「どうしてだ。何があった?一人で抜け出してきた事といい、ひょっとしてあの宴の席で何か嫌な出来事でもあったのか?」 宗茂が自分を見ている。 真っ直ぐな瞳で、隠す事を許さないというような強い瞳で自分を見ている。 彼が話す度、彼の吐息が自分の唇に触れる。 自分が口を開くのを、彼はその魅惑的な眼差しでじっと見つめながら待ってくれている。 ────泣きそうだ。 まさかこんな風にして宗茂と接近する事になるなんて露にも思わず、名無しの心は千々に乱れた。 最愛の男性が、自分の事を気遣ってくれている。何かあったのかと尋ねている。 答えたい。答えたくない。本当の事を言いたい、でも絶対に言いたくない。 私はどうしたらいいの。 「なん…、でも……ない……」 滑稽なくらいに、声が震える。 今にも泣き出しそうになる気持ちを堪え、名無しはやっとの思いでそれだけの言葉を吐き出した。 すると宗茂は、名無しのその態度を見てますます疑問を深めたという様子で眉間に軽く皺を寄せ、尋問を続行する。 「なんでもない訳がないだろう。今にも泣き出しそうな顔をしているじゃないか。誰かに何かされたのか?」 「ううん…。本当に、なんでもないの…。だからお願い宗茂、この手を離して……」 「嫌だ」 「え……」 「君がたまに落ち込んでいる姿は今までにも何度か見かけた事はあるが、ここまで悲痛な顔をしているのは見た事がない。あの時君の周りには確か男の武将が何人かいたな。誰かに酷い事でもされたのか?」 「それは…、違……」 もういい。やめて。 もうそれ以上何も言わないで宗茂。お願いだから。 どうか宗茂、お願いだから……。 彼の声に、誘導されそうになる。彼の瞳に、誘惑されそうになる。 いっそ、正直にしゃべってしまいたい。この苦しく切ない胸の内を打ち明けてしまいたい。 でももはや結婚が決まった状態の彼にこんな話をして、一体何の得があるというのか。 自分が話した所で結婚が取りやめになる訳でもなく、彼が自分を愛してくれる訳でもない。 それになにより、そんな事を言ってしまえば宗茂とギン千代を困らせてしまう。 そう思い、名無しは必死で自らを奮い立たせ、なんとかこの場をやり過ごそうとして脳内であれこれ考えを巡らせる。 [TOP] ×
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