異次元 【恋愛強者】 覚悟を決めて恐る恐る瞼を持ち上げると、司馬懿はただ静かにそんな名無しの姿を眺めていた。 一時の静寂。 仲達、と名前を呼ぼうとした名無しの行動を遮るように、司馬懿がゆるりと手を上げる。 何事かと思い、名無しも黙って司馬懿の行為を見守っていると、やがて男の手が優美に動き出す。 『帰りが遅い。待ちくたびれたぞ』 (……っ!?) 名無しが息を飲んだ拍子に、抱えていた荷物が再び彼女の足元にゴトンと落ちる。 ────ハンドサイン。 あまりの衝撃に体が硬直し、名無しは痺れるような感覚を抱く。 あの司馬懿が、返事をくれた。 半歩体を引き、言葉に出来ない驚きと喜びに全身を震わせる名無しに、司馬懿が目の奥だけでにやりと笑う。 そして、もう一度長い指先で魔法のように文字を描く。 『早く戻れ。……私の元へ』 可愛がっているペットを呼ぶ飼い主を思わせるその言葉に、名無しは再びビリビリっとした痺れを感じた。 全てを従える王者の如き司馬懿の瞳。 逃げようとしても、すでに遅い。 振り払えない眼光の強さに、抗えない。 「……は、はいっ……!」 かろうじて放つことが出来た声を振り絞り、名無しは精一杯の返事をした。 男の命令に逆らえない事に対する悔しさか、結局は受け入れてしまう羞恥心か、諦めなのか、そうでなければ、逆に支配される歓びか。 哀れな程に頬を赤く染め、震える声で従う女の姿を認めた司馬懿の口端が満足そうに吊り上がる。 「────よろしい」 司馬懿はそう告げて踵を返し、まるで何事もなかったようにその場を後にした。 一気に全身から力が抜け、へなへなっとその場に座り込む名無しを気にすることもせず、己の執務室に向かって歩き出す。 司馬懿の先には、何故か郭嘉が立っていた。 司馬懿と同様、すでにその場から離れているはずの郭嘉も何を思ったのか、司馬懿からそう離れていない場所で佇んでいる。 「何だ」 短い言葉がやけに司馬懿らしく感じ、郭嘉は薄い笑みを口元に張り付ける。 「……ずるい男だ」 からかいを含んだ郭嘉の口調に、司馬懿がすい、と双眼を細める。 「何が」 どうせそこから全部見ていたくせに。 嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、司馬懿はその考えをやめた。 郭嘉の事だ。 多少離れた位置からであっても、司馬懿の手話を読んでいたはず。 ならば、そう言えば言ったところで、余計にその内容について突っ込んでくるに決まっている。 「別に」 郭嘉は肩をすくめ、プルプルと首を振る。 「ところで司馬懿殿、何か忘れ物でもしたのかな。あなたにしては珍しい」 「確認したい事があったのでな」 「何を」 「明日の天気」 「あちらへ戻った意味は?」 「空模様を見れば大体分かるだろう」 「なるほど」 「お前こそそんなところで立ち止まって何をしている。骨折でもしたのか」 「司馬懿殿がなかなか来ないから、心配になって待っていただけだよ。迷子にでもなっているのかと思ってね」 「それはどうも。余計なお世話だ」 その場から一旦離れたフリをして、相手を欺こうとしたのはお互い様。 その点においては同罪とも言えるので、郭嘉も司馬懿もあえて相手の嘘を追及しようとは思わないし、また、自分の方から手の内を明かそうとも思わない。 「……実際、前から不思議に思っていたんだよ」 何故、名無しが今でも普通にここ≠ノ存在していられるのかと。 あのように善良な性格の女性など、血に飢えた獣の巣窟であるこの城内では単なる獲物も同然。 本来であれば多くの男達によってたかって食い荒らされて、骨の髄までしゃぶり尽くされて、今頃はただの肉片一つも残っていないのが関の山。 それなのに、今日現在も名無しが自己を保ったままで生きているというのが正直理解し難く、奇跡としか言いようがないと郭嘉は断じる。 「考えられるのは二つの理由だ。一つは私のように、凶暴な獣も名無し相手だとつい甘い顔をしてしまう。男側が彼女に対しては意識的に手加減≠オている場合」 郭嘉は語りながら人差し指を立て、続いて話の終わりに中指を立てた。 「そしてもう一つ────彼女の傍には、獰猛な地獄の番犬・ケルベロス≠ェ常についている」 郭嘉が挙げたケルベロスというのは、ギリシャ神話に登場する怪物の名称で、三つ首、蛇の尾、首元から無数の蛇を生やし、冥府の入り口を守護する猛犬だ。 「彼女の生き血をすするのは自分だけに許された特権だと言わんばかりの傲慢さで、貴重な食料を奪おうとする他のオス達を牽制し、威嚇し、必要とあれば片っ端から噛み殺す」 笑みの形をした唇のまま、二本の指を見せつけるが如くゆらゆらと揺らす。 芝居がかった口調や動作が、これほど様になる男はそういない。 「そう言えば、誰かさんもケルベロスにそっくりだとは思わないか?まるで頭が三つあるみたいに頭の回転が速いし、目が利くし、宝に近付く者には即座に噛みつくし……」 棘を含んだ郭嘉の台詞に、司馬懿が片方の眉を上げた。 夜空をそのまま閉じ込めたように暗い司馬懿の瞳が、金髪の美男子に冷え冷えとした眼光を向ける。 「つまらん作文だな。減点五千」 「素直じゃないなあ」 「何の話だ」 「おまけに強情ときている」 「生憎、誰かさんとは違うのでな。優しさだけを売り物にするすけこまし」 司馬懿のカウンターに対して、郭嘉の赤い唇が魔性の笑みに彩られていく。 一見侮辱とも思えるこのような台詞を受け止めて郭嘉が笑っていられるのは、彼自身の飄々とした性格は勿論の事だが、決して自分はそれだけ≠フ男ではないという確信と誇りが郭嘉の中にあるからだ。 そして、そう言い放つ司馬懿もまた郭嘉の事をその程度の男とは全く思っておらず、それを郭嘉も承知している。 先程の郭嘉の発言もまた然り。 こんなものは彼等一流のひねくれた賛辞の一種であり、単なる軽口に過ぎない。 暇を持て余した神々の遊びというやつだ。 「あなたが羨ましいよ、司馬懿殿」 そう表面上言うだけで、ちっともそんな風に思ってはいない自信に満ち溢れた表情で、郭嘉が艶然と笑う。 「この私が長い間ずっと名無しを口説いても、毎回逃げられたりはぐらかされてばかりだというのに。たった二言三言で彼女をゆでだこにするなんて」 やっぱり一部始終を見ていた訳か、この目ざとい男は。 想像通りの展開に、司馬懿がうんざりした顔をする。 「さすがはM女を総べるご主人様だ」 「勝手にほざいていろ」 聞こえよがしに言われても、司馬懿は一切気に留めない。 どちらも美しく、知能が高く。 地位も高く、高給取りで、女性陣からの人気も高く、雄として優秀な男性。 そして、同じくらいに手強い恋愛強者。 郭嘉はそう簡単に他人に本心を曝け出す男ではないが、司馬懿から本音を引き出すのも同じくらいに困難だろうと思われる。 「司馬懿殿も、案外隅に置けないたらしだね」 「お前にだけは言われたくないな。この真性女タラシ」 ─END─ →後書き [TOP] ×
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