異次元 【恋愛強者】 「参ったなあ、何か誤解しているみたいだね。こんなこと決して私の本意ではないんだよ?名無しとあなたの両方の期待に応えるために、仕方なく」 「ほう。仕方なく」 司馬懿の口調に皮肉が混じっているのを感じても、郭嘉は『ふふっ』と笑うだけ。 そして、当の名無しはといえば、哀れな事に未だに一人で悩んでいた。 『あの…』 しかし、どうしても分からなかったらしく、胸の前で両手を合わせて謝罪のポーズを取った後、遠慮がちな動作で指文字を紡ぐ。 『ごめんなさい、わかりません。……もう一回、お願いできますか?』 いかにも申し訳なさそうな表情で、名無しは郭嘉に懇願した。 そんな彼女の姿を目に留めて、郭嘉が長い睫毛を微かに震わせる。 その瞳の中でギラリと瞬く、魔性の輝き。 「ああ…、涙が出そうなくらいに謙虚な女性だ。なんて健気なのだろう」 うっとりと蕩けそうな眼差しで名無しを射る郭嘉の声と話し方は、どこまでも甘い。 ≪立てば芍薬、歩けば牡丹。歩く姿は百合の花≫ というのは美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを花に例えて形容する言葉だが、そういった花々ですら色褪せて見えるくらいの艶やかな笑みを浮かべて郭嘉は名無しを見つめている。 「そんな真面目な名無しの唇から、もう一度自分に向かってあんな言葉を言って下さいと請われるとは、背徳的な響きにも程がある。背筋がゾクゾクして、胸がときめくよ」 「一見優男に見せかけて、やはりお前はSなのか?」 「いやいやそんな。自他ともに認める生粋のS男である司馬懿殿に比べれば私などずっと優しいものだと思うけどね。それとも同じ軍師同士、類は友を呼ぶとでも言うのかな。あなたほど優れた人物にお仲間認定して頂けるというのなら、それはそれで光栄だよ」 「誰が類友だ」 嫌そうに眉を吊り上げ、隣の男を睨む司馬懿もまた豪奢な華の如く美しい。 司馬懿が剥ぐように視線を下方へと戻すと、そこには、再出題を待つ名無しが所在なさげにポツンと立っている。 「この男の問いは無視しろ!」 名無しの頭上から降り注ぐ司馬懿の声には、鋼を思わせる硬質さと冷たさが宿っていた。 郭嘉の言う事は放っておけ、というのだ。 名無しの呼びかけに対して先程までは完全に無反応だったのに、何故ここにきて突然司馬懿が郭嘉と自分の間に割って入る事になったのか、名無しには全然分からない。 だが、基本的に無駄な発言はしない男性だ。 上で繰り広げられている司馬懿と郭嘉の会話の中に、何か理由があるのだろう。 自分の与り知らぬ所で何やら話が進んでいるらしい事に釈然としない部分を感じつつも、ここで司馬懿のアドバイスを蹴って彼の機嫌を損ねるよりは従った方がいいと思い、名無しはやむを得ず頷いた。 「まあ確かに、この寒い中これ以上名無しをあの場に引き留めるのも良くないね」 司馬懿の妨害をものともせず、涼しい顔を崩さない郭嘉だが、ここにきて普段のレディーファースト振りを取り戻したようだ。 名無しの身体を気遣う発言を零すと、城壁から軽く身を乗り出す。 「上がっておいで名無し。この続きは城内でやるとしよう」 郭嘉は凛と良く通る声で名無しに告げ、言葉通りおいでおいでをするみたいに手招きをした。 「はーい!」 元気良く返事をする名無しににっこり微笑み、郭嘉はさて、と短く呟いて、司馬懿の方に向き直る。 「それでは私は退散するよ。午後の会議が終わったら、また司馬懿殿の執務室に顔を出すからよろしくね」 「来なくていいぞ。さようなら」 天使に良く似た瞳が至近距離で優しく笑いかけても、司馬懿は犬や猫を追い払う時と同じくしっしっ≠ニ手で払う。 手で払うような仕草というのは嫌悪感の現れだとも言われるが、その割に郭嘉と司馬懿がこうして一緒に話をしている場面を名無しは何度も目撃している。 単純に仕事上顔を合わせる機会が多いだけなのかもしれないが、仲がいいのか悪いのか。 司馬懿と郭嘉に関しては、世間一般の凡人達の理解を超越した関係性なのかもしれない。 (…仲達、やっぱり聞こえていたんだ) 郭嘉にはあのように明るく答えたが、司馬懿の『無視しろ』発言を聞いた後、名無しは人知れず心を痛めていた。 帰還して郭嘉と司馬懿の姿を目にした際、自分の呼びかけに対して手を振って応えてくれたのは郭嘉だけだった。 司馬懿には聞こえていなかった、気付いていないのかもしれないという可能性も一瞬考えてみたものの、自分の言いたい事がある時には司馬懿はああしてちゃんと行動で示している。 その後の郭嘉と名無しのハンドサインの応酬中も、司馬懿はずっと郭嘉の隣に居た。 けれども、『問題を出して』という名無しの依頼に対してもまた彼の反応は無かった。 知っていてスルーしているという事だ。 (……。) どうせ自分がやらなくても、郭嘉が代わりにやるだろう。 普段から女性に優しい郭嘉の方が適任だろう。 ……等々、ひょっとしたら司馬懿の中でも色々な考えがあっての対応なのかもしれないが、彼の本心がどうなのか、真相はどうなのかなんて名無しにとっては藪の中。 こんな司馬懿の態度は初めてではないのだし、司馬懿は冷たい、女性に対して厳しいなどと評判の男性であるというのは名無しも十分に理解しているものの、それでもやっぱり悲しく感じる。 彼と出会って最初の頃ならいざ知らず、長年一緒に仕事をして来たというのは事実だ。 さすがに仲良しとまでは言わないが、それなりの関係性は築けてきた……つもりだったのだが、やはりそれはただの自惚れに過ぎなかったということか。 (…いけない…) 考えていたら、ちょっと涙が出そうになってしまった。 こんなところで一人勝手に落ち込んでいて何になる。 何があっても自分はこの魏城で、大尊敬する曹操にずっと仕えていくと決めたはずではないか。 世の中の全てが自分に対して好意を持ってくれて、優しい人間ばかりだと思っていたら大間違いだ。 司馬懿の気持ちは司馬懿にしか分からないし、あれこれ余計な事を考えていても仕方ない。 気を取り直して、今日も頑張って働こう。 (よし!) 気持ちを切り替え、足元に置いていた荷物を抱きかかえて再度城壁を見上げた直後、予想外の光景を目にした名無しの喉が『ひゅっ』と鳴った。 そこには、司馬懿が名無しを見下ろす形で立っている。 司馬懿はとっくに郭嘉と一緒に立ち去ったと思っていた。 ……というか、確かに司馬懿も名無しに対して背を向けて歩き出したのを確認したような気がするのだが、あれは自分の見間違いだったのだろうか。 それとも、何か目的があって再度こっちに戻って来たとか? そうはいっても、これといった理由など思いつかず、不意に鼓動が跳ねる。 それと同時に、名無しの額にじんわりと冷や汗が浮かぶ。 わざわざあの司馬懿が自分の方に来るなど、到底いい知らせだとは思えない。 ひょっとして、また何か怒られるのだろうか。 反射的に、名無しはぎゅっと固く目を閉じる。 [TOP] ×
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