異次元 | ナノ


異次元 
【恋愛強者】
 




「ではそうなるかどうか、試してみようか」

自信を持った声音で語り、郭嘉は名無しに視線を戻した。

彼女の合図に呼応する如く、郭嘉もまた両手を使っていくつかのサインを示す。

『おかえり名無し。驚いたな。誰に教わったんだい?』

覚えたてであろう名無しにも分かりやすいようになるべくはっきりと形を作り、幾分緩やかな速度を意識しつつ返したつもりだが、伝わっただろうか。

『あちらのぐんしの、カンホウさんに、おしえてもらいました』

じっと男の手元を見つめる名無しの眼差しは、真剣そのものだ。

郭嘉が送った文字の意味と、それに対する己の返答と、彼女なりに一生懸命考えながら答えを導き出しているのだろう。

手馴れた動作で合図を作る郭嘉と比べると、一つ一つの文字を作成するスピードは遅い。

『習ったのは、どんな方法で?』

短い方が捉えやすいと思い、簡潔な文章を作成してみた。

それを見た名無しはちょっと考え込む表情を見せた後、ゆっくりと手を動かす。

『ほんを、たくさんかしてもらいました。いまみたいに、じっせんもしました』

彼女の手話はたどたどしい。

郭嘉のそれを大人の会話に例えると、名無しの場合は子供の会話レベルくらいかもしれないが、ちゃんと会話は成り立っている。

「へえ…。思ったより、やるじゃないか」
「ふん」

郭嘉の賛辞に、司馬懿は無愛想に応じた。

確かに、間違ってはいない。

「郭嘉!」

城壁の下で、名無しが人懐っこそうな笑顔を見せていた。

『もうすこし、むずかしいのもやってください!』

手話で訴える名無しのお願い≠ノ、郭嘉の口元が自然と緩む。

知らない事をひたむきに学ぼうとする彼女の姿勢はとても可愛らしい、と郭嘉は思う。

あんな風にお願いされると、男として何でもやってあげたくなってしまう。

「そうだなあ…」

とはいえ、どうしたものか。

きちんと対話が出来ているとはいえ、名無しはハンドサインを学び始めたばかりの初心者だ。

あまり長い文章を作成するのもなんだし、難解な言葉を織り交ぜるのもまだ早い。

かといって、定型文的な会話やありきたりの言葉で問題文を作るのは意味がない。

分かりやすい言葉だと、いくつかの文字が読み取れなくても前後の文章の流れから大体の予想がつく場合もあるし、それでは彼女の求める≪もう少し難しい質問≫にはならないだろう。

どうするか……。

「予測不可能な内容にしろ」

扇で顔を仰ぎつつ、司馬懿が名無しを顎で示す。

「私もそう思うけど、初心者向けで、なおかつ少し難しいとなるとどうかなあ。それほど凝った内容にも出来ないし」
「短い文なら十分初心者向けだろう」
「具体的には?」
「10文字以内」
「無茶を言うね」

端正な顔を曇らせ、郭嘉は思わずそんな言葉を吐いていた。

他人事だと思って随分簡単に言ってくれるものだ。

郭嘉は司馬懿の無茶振りに対して僅かばかりの溜息を漏らしたが、思案するみたいに視線を彷徨わせると、ふと顔を上げた。

郭嘉の顔付きから察するに、何やら思いついたらしい。

「……ごめんね名無し」

頬に手を当て、悩む仕草を見せつつ郭嘉が囁く。

「……本当は、こういうのは女性に対してあまり良くない言葉だと思うけど……」

『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』『かわいい子には旅をさせよ』という言葉があるように、自分にとって可愛い相手だからこそ甘やかさず、あえて厳しく接して辛い思いをさせる考え方もある。

ならば自分のこの行為も、言うなればそういった親心の一種だろう。

全く気は進まないが、仕方ない。

そう。

これはあくまでも、仕方なくやっているだけの事なので。

「ではいくよ、名無し」

郭嘉の呼びかけに、名無しがこくりと頷く。

すると、先程まではほんの小手調べだと言わんばかりに、郭嘉は今までの倍以上の速度でハンドサインを繰り出した。


『一 発 犯 ら せ て』


郭嘉の出題は、司馬懿の注文に見事に応えたものだった。

単純な言葉で、文字数も少な目でありながら、生徒の性格を考慮した上で、まず彼女なら思いつかないだろうと思われる内容。

現に、名無しは眉を寄せ、怪訝な目付きで郭嘉を見上げている。

「…えっ…。えええ…?」

名無しは引きつった声を零し、必死に答えを考えている様子だった。

郭嘉の手話のスピードについていけなかったのか、部分的にしか読み取る事が出来なかったのか。

あるいは、意味を理解した上で反応に困っているのだろうか。

一応解読は出来ているのだが、すこぶる常識的な価値観を持つ名無しの頭脳がそれを全く理解できず、単なる勘違いとして処理しているのか。

まさか、そんな。郭嘉に限って。

そんな発言はありえないと、彼女の中にある郭嘉に対するイメージが、思考停止状態を生み出しているのか。

「……えーっと……」

実際のところはどうなのか、彼女本人以外には知る由もないが、大きく見開かれた名無しの両目には、明らかな困惑の色が滲んでいる。

「ふふっ。困ってる、困ってる」

なんという分かりやすさだろう。

こんなに素直な性格の持ち主が、よくもまあこれだけ曲者揃いの武将達に囲まれて今までやってこられたものだと郭嘉はしみじみ感心する。

「もう少しゆっくりやってあげれば良かったかな。それとも、もっとひねりを入れた例文の方が良かったかな?」

混乱する名無しをよそに、我が意を得たりとばかりにくすくすと笑う郭嘉に、司馬懿が冷たい視線を注ぐ。

「貴様…」

廊下に落ちる声の低さに、たまたま通りがかった兵士たちがぎょっとして息を詰める。

聴く者をゾクリと震わせる、冷淡な声音だ。

「おや、どうしたのかな?司馬懿殿のご要望通り、10文字以内で名無しには予測不可能な問題だったと思うけど」

全く悪びれる素振りも無く笑顔で返す郭嘉に対し、司馬懿は呆れたように舌打ちする。

「私も人の事は言えないが、お前も大概下品だな」
「人聞きの悪い。この城の中で、私より上品な男はいないだろうに」
「品のある男が出す問題かあれが」

司馬懿の言葉から察するに、名無しには分からなかった郭嘉のサインを彼はしっかり把握していたようだ。

その辺りはさすがというべきか、名無しと司馬懿の能力値のレベルの違いだと思われる。


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