異次元 【恋愛強者】 「おや…?噂をすればなんとやら、か」 「!」 郭嘉の台詞に促され、司馬懿もまた彼と同じ方向に目を向けた。 見ると、いつの間に接近していたのか、馬に乗った武将達やその周囲を取り囲むよう並ぶ兵士たちの一団が城門に辿り着き、先頭の兵士が門番に話しかけている。 「開門!!」 門番の号令と共に、重く巨大な城門がゆっくりと開かれていく。 城内へと足を踏み入れる人々の顔ぶれは、隣国で行われた会合の為に先週旅立った者達だ。 その集団の後方に、名無しがいた。 同僚と思わしき女性武将と親しげに談笑しつつ、愛馬の背中から慎重な動作で降りる彼女の元に、若い兵士が走り寄る。 名無しが礼の言葉と共に兵士に手綱を預けると、彼女の愛馬は彼に連れられて厩舎へと向かって行く。 何やら視線を感じた。 ふと城壁を見上げると、見慣れた男性二人の姿が名無しの瞳に映り込む。 「仲達…、郭嘉!ただいま!」 城の上階に居る二人に届くように、精一杯声を張り上げる。 頭上に伸ばした右手を大きく左右に振って帰還の挨拶を告げる名無しの顔には、両者に出会えた事と無事に戻って来られたという喜びを表すように、弾けるような笑みが滲んでいた。 「ふふっ。お帰り、名無し」 そんな彼女の姿に誘われて、郭嘉もつい笑いながら手を振り返してしまう。 「いつ見ても可憐な人だね。司馬懿殿もそう思うだろう?」 「全然」 名無しの呼びかけに対してにこやかに応じる郭嘉とは異なり、司馬懿は憮然とした面持ちで彼女を見下ろすだけだった。 「…あの馬鹿。相変わらず、誰にでも愛想を振り撒きおって…」 毒づく司馬懿に、それの何が悪いのか?と郭嘉が問う。 時には外交に携わる立場の者であれば、むしろある程度の社交性は必須要素だと思うのだが。 「何事にも限度がある。日常に差支えがない程度であれば構わんが、その結果お前のような年中発情狂の種馬をおびき寄せているのであれば愚策だろうが」 「酷い言い草だなあ。そういう理屈でくるなら、確かに彼女の穏やかで素直すぎる性格は問題とも言えそうだ。その結果、あなたのようにドSで腹黒な鬼畜調教師を引き寄せているのだとしたら目も当てられないね?」 「言っておくが、私をあの女の教育係に任命したのは曹操様だ。私とお前は違う。好きであんなちんちくりんと関わっている訳ではない。文句があるなら殿に直接言え」 司馬懿は不快そうに眉根を寄せ、口元を歪める。 他人を拒絶するオーラを全身に纏ってなお、息を飲むほどに端麗な容姿の男。 司馬懿の美貌は郭嘉と異なり、他人の心を柔らかく解すものではなく、逆に一種の緊張を強いる程の冷たい空気を宿している。 それでも女性であれば、この男に見つめられると湧き上がる多幸感に身を震わせ、もうどうにでもして、という気持ちで操を捧げてしまうのだろう。 「仲達ー!」 聞こえていないと思ったのか、下ではまだ名無しが男の名を呼びつつブンブンと手を振っている。 「ほら、司馬懿殿。お呼びだよ。あなたも手を振ってあげたらいいのに」 「必要ない」 「仮にも職場の同僚相手なのに、可哀想に…」 「知るか。子供じゃあるまいし」 ざらりと渇いた硬質な響きを孕む司馬懿の返答に込められるのは、呆れなのか、嘲笑か。 郭嘉も司馬懿も、二人とも自分の方に顔を向ける形でこちらを見下ろしているので、呼びかけに気付いていないとは思えない。 それに対して目に見える形で反応を示してくれるのは郭嘉だけだという事実を前にして、自分の声は司馬懿に無視されているのだ、と理解した名無しはとても悲しげな顔をした。 しかし、そんな司馬懿の態度もまたいつもの事だと同時に理解したのだろう。 普通の女性であれば大いに傷つき、意気消沈してしまう所だが、それでも司馬懿という男性の性格を受け止めて、受け流すことが出来るのが名無しの凄い所だ。 名無しは気を取り直すと、おもむろに両手を顔のすぐ下辺りまで上げた。 郭嘉達に向けてアピールするみたいに手を振った後、今度は指先を動かし、何やら複数の形状を連続で作り出す。 『た・だ・い・ま・も・ど・り・ま・し・た』 その姿を認めた司馬懿は僅かに目を細め、郭嘉はへえ、と呟く。 「軍隊式手話か」 短く告げる司馬懿に、郭嘉が同意する。 「うん。そういえば、あの国ではある程度の階級以上の文官や武将にとって必須科目とされているって聞いたけど」 二人の台詞の通り、今回名無しが会合の為に訪れた隣国では手を使った合図に関する研究と勉強が盛んに行われていた。 いわゆる『ハンドサイン』というものだ。 身体的な事情からそういったサインを利用する人々だけではなく、声を必要としないハンドサインは政治面や軍事面でも役立つ場面が多い。 周りの人間には聞かれたくない内容でも、声を出せない状況でも、少し離れた距離にいる相手でも、それを修得している者同士であれば秘密の会話が可能である。 国や地域によって言語が異なる為、同じサインでも全く異なる意味を示したり、限られたグループ内だけで使う専門用語等を織り交ぜた独自のサインが作られるケースもあるが、名無しが今回披露した物はそういった要素を含むものだった。 社交的かつ、普段からも勉強熱心な性格である名無しのことだ。 おそらく今回の隣国訪問においてもただ単に定められた会合に出席するというだけでなく、持ち前のコミュニケーション能力で相手の懐に飛び込み、休憩時間や隙間時間を上手く活用してハンドサインを学んでいたのだろう。 「確か一週間くらいの滞在期間だったと思うけど、色々と勉強してきたみたいだね」 いい心掛けだ、と郭嘉は目を丸くして感心する。 「名無しのそういう努力家なところは、素直な好意に値するよ」 「別に」 それくらいは出来て当然の事。 司馬懿は簡潔に言って、フンと鼻を鳴らす。 「相変わらず厳しいなあ、司馬懿殿は…。たまには彼女を褒めてあげたって罰は当たらないと思うけど。褒めて伸ばす教育っていうのもある訳だし」 「周りから天才、努力家、優秀と散々褒められ続けて育ったのがこの私だ。その結果、いい性格になったと思うか。お前は名無しを私のような女にしたいのか?」 凄い説得力だ。 郭嘉は女性版・司馬懿となった名無しの姿を想像した。全く好みではない。 司馬懿の言葉に郭嘉は反論できず、どうしたものかと思ったが、それでも女性に対しては常に優しくあれというのが郭嘉のモットーである。 司馬懿の性格はどちらかと言えば生まれつきのものに感じるので、先程の彼の意見はとりあえず横に置いておくとして。 もし、男性から優しくされた事で名無しが調子に乗ったり、我儘な性格になってしまったとすれば、所詮名無しがその程度の女だったという事だ。 よく勘違いされやすいのだが、郭嘉はただ単純に『女性に甘い男』という訳ではない。 ある意味、女性の本質を見極めるために、女性をふるいにかける為に、あえて優しくしているのだと郭嘉は思っている。 そう────自分は全く優しくなどない。 [TOP] ×
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