異次元 | ナノ


異次元 
【恋愛強者】
 




冬季が到来し、外気が凍えるような寒さを孕むと、外に出るのも辛くなる。

休暇日であれば丸一日家に引きこもり、一切外出しないという選択肢も可能であるが、勤務日であるとそうはいかない。

(肌寒い日は美しい女性と身を寄せ合い、自室でゆっくりと酒を飲み交わしながら楽しい一時を過ごしたいところだが)

そんな事を考えながら、数冊の書物を小脇に抱え、城壁通路を金髪の若者が闊歩する。

「郭嘉様、おはようございます!」
「郭嘉様、ご機嫌麗しゅう。本日もお寒うございますね」

朝っぱらから職務を否定して優雅な休息に心を馳せる郭嘉の心の内など全く気付いていないとでもいうように、大勢の兵士や女官達は彼とすれ違う度に爽やかな挨拶を投げかける。

「おはよう。本当に、最近一気に寒くなってきたからね。あなた達も温かくして過ごすんだよ」
「はいっ…!あ、ありがとうございます、郭嘉様!」

ギリシャ神話に登場する神々の如き郭嘉の美貌を目の前にして、その上、蕩けるような甘い声で語りかけられると、どんな女官もただひたすらコクコクと彼の言葉に頷く事しか出来ない。

両目を潤ませ、頬を紅潮させながら自分を見返す女性達に優しく微笑み、郭嘉は正面に視線を戻す。

そうしてしばらく足を進めていると、やがて前方から見知った人物が近づいて来るのが見えた。

郭嘉と同様に、書類を手にした状態でゆったりと歩いて来る男性。

仕立ての良さが窺える高価な衣装を身に纏い、帽子の下から覗く艶やかな黒髪を風に靡かせつつ歩みを進めるその人物は、この魏城で郭嘉と同じくらいに高い知性と教養を誇り、また、容姿も負けず劣らず整っている。

魏国を象徴するカラー、青を基調とした上品なデザインでありつつも、その帽子に施された煌びやかな金装飾は彼の内に秘める野心の表れだろうか。

彼を見つけて嬉しそうに微笑む郭嘉とは対照的に、郭嘉の姿を認めた男は眉間に軽く皺を寄せ、露骨に面倒臭そうな顔をした。

そのような男の態度など全く意に介せず、郭嘉は親しげな口調で彼を呼ぶ。

「おはよう、司馬懿殿。朝一番にあなたに会えるとはツイているな。実は折り入って相談したい事があったんだ。良かったら、後で少し時間を貰っても?」
「断る」

一刀両断。

司馬懿の愛想の無さにはもう十分慣れているつもりだが、それでも予想以上に、いや、ある意味予想通りと言えるほどに即答する司馬懿にさすがの郭嘉も苦笑する。

「相変わらずつれないなあ、司馬懿殿は。せめて少しくらい考えるフリでもしてから返事をくれてもいいじゃないか」
「年末に向けて普段よりも短い締切で各種書類を仕上げたり、関係部署に提出する必要があるこのクソ忙しい時期に、何故お前などの為にこの私が余計な時間を割いてやらねばならんのだ。『時は金なり』と言う言葉を知らんのか?」

そこをどけ≠ニでも言いたげな動作で、司馬懿は愛用の黒羽扇を体の前で真横に薙ぐ。

「確かに、他人の時間を奪う事をタダで願うのは良くないね。ではこうしよう。司馬懿殿が私の話を聞いてくれたら、それなりの謝礼を弾むよ」
「金など要らん。見ての通り私は金に困っている人間ではないのでな」

言われてみれば確かにそうか。

謝礼を出す、というのはこういう交渉ごとにおけるお約束ともいえる定番のキーワードだ。

しかし、司馬懿のような人物が金銭で動くタイプだとは思えず、郭嘉は素直に考え直す。

「なるほど。では、その対価として司馬懿殿は何がお望みかな?」
「……対価、か」

問いを受けた司馬懿は少しの間思案するように僅かに目を細めると、やがて考えが纏まったのか、赤い唇を静かに開く。

「────蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、仏の御石の鉢、龍の首の珠、燕の子安貝」
「えっ」
「この中のどれか一つでも差し出すなら、お前の相談を受けてやろう。どうだ。この条件、飲めるか?」

質問に質問で返す司馬懿の口元に、意地悪な笑みがニヤリと浮かぶ。

「ははあ……そう来たか」

誘われるようにして、郭嘉も同様に口端を吊り上げた。

蓬莱の山にあるという銀の根・黄金の茎・白き玉の実を持つ『蓬莱の玉の枝』。

火にくべても決して燃える事のない『火鼠の皮衣』、天竺に伝わるという『仏の御石の鉢』、五色に輝くという『龍の首の珠』、安産の守りにもなるという『燕の子安貝』。

司馬懿の告げた物は『かぐや姫』という有名なおとぎ話に登場する幻の宝物の名称だ。

世にも類稀なる美女であるというかぐや姫の噂を聞きつけた5人の公達は、我こそはとかぐや姫の元を訪れて求婚する。

その際、結婚に応じる条件として姫が彼らに突き付けたのが、これらの幻の宝を持って来いという無理難題。

公達相手とあっては無下に断る事が出来ず、その代わりにと姫が提示した案であるが、そのような物など誰一人として手に出来るはずがない。

要するに、『貴様らとの結婚なんぞお断りに決まっているだろうが。二度と来るな、ブタ野郎!!』という事だ。

かぐや姫が実際にこれほど辛辣な言い方をするかどうかは定かではないが、おそらく司馬懿姫≠ネらそう言うだろう。

「かぐや姫とは恐れ入るね。相談事一つと引き換えに彼女と同等の対価を所望するという事は、あなた自身はかぐや姫をさらに凌ぐ高嶺の花で、他に類を見ないくらいに高貴な存在という事なのかな?」

相談を受ける気などさらさら無いというのなら、はっきりそう言えばいいものを。

わざとこのようなひねくれた回答をして、相手を困らせて楽しむ司馬懿のドS要素をひしひしと感じ取り、郭嘉もまた意地の悪い問いを投げかける。

「馬鹿な事を。時が来ればさっさと月に帰る予定の単なる無職居候女と、我が国をより一層発展させる為に連日深夜まで働く上級役人が同価値な訳がないだろう。この私をマロ眉毛でおちょぼ口のブス如きと一緒にするな」

しかし、郭嘉の反撃などなんのその。キレのいい司馬懿節は本日も健在だ。

数多くの公達や時の帝の愛を一身に捧げられ、その寵愛を我が物としたおとぎ話の姫君をただの居候扱いし、語り継がれた彼女の美貌までもをあっさりと無視する司馬懿の回答に、郭嘉も笑うしかない。

美の基準など国や時代・地域性によって大きく異なる物ではあるが、彼の場合、そんな事など十分承知の上での発言だと思われる。

このような性格の男性に、三国全土を見渡してみてもトップレベルに値するであろう優秀な頭脳と、目が覚める程に整った美貌をお与えになるとは、神様とやらも随分偏った采配をするものだ…と郭嘉はつくづく思った。

(まあでも、実際に司馬懿殿がかぐや姫だと考えてみると、この返事が似合うと言えばそうなのかもしれないな)

世にも賢く、気高く、美しく。

もし司馬懿がかぐや姫の立場だとするならば、むしろ彼女以上の無理難題を言いつけて、帝相手であろうと首を横に振り、並み居る求婚者達を一蹴するだろう。

己の考えに、郭嘉は妙に納得した。


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