異次元 【※ただしイケメンに限る】 「─────チョロい女」 怯える姿はまるで肉食獣に目を付けられた小動物のようで、その上、妙な色気を漂わせていて、酷く美味そうだ。 喉の渇きを覚えた司馬師が赤い舌先で自らの唇を湿らせると、名無しは余計に身を固くして司馬師に抗議した。 「なっ…、か、からかっていたの?ひどいよ子元!そんな言い方…」 「表面的にはチョロい割りに、肝心な場面になると思いの外強情な一面を見せるのは正直計算外だったがな。その面倒な性格、何とかならんか」 「私なんかよりよっぽど複雑で面倒な性格の子元に言われたくなんかありませんっ」 「ふん。この私に反論するとはいい度胸だ。もっと素直で聞き分けのいい女に生まれ変わるよう、鞭でも使って躾けられたいか?」 「イヤですっ!」 可愛がっていたはずの愛玩動物から反抗され、機嫌を損ねたとばかりに端正な顔を歪ませる司馬師に対し、名無しはそれでも負けじと反論する。 普段ならこの時間、もう少し人通りがあるはずなのに、この廊下に夏侯覇も含めて3名の姿しか見えないのは不幸中の幸いというか、もはや奇跡だろう。 周囲の心配をする夏侯覇と名無しの心を知ってか知らずか、司馬師は少々思案する顔付きに変わると自分の胸元に手を滑らせる。 そうして2、3回服の内側を探る所作を見せると、銀色に輝く小さな塊を取り出した。 「お前に言い忘れていた事がある」 「ん?なあに?」 「────これを」 短く告げられた男の声と共に名無しの前に差し出されたのは、形状からして何かの鍵のようだ。 一つだけではなく、リングでまとめられた二個の鍵が付いている。 何だろう、これ。仕事で使う物なのかな。 書庫の鍵?倉庫の鍵とか?? そう思って、名無しがしげしげと鍵を見つめていると、司馬師はさらに予想外の言葉を名無しに降らす。 「こちらが私の執務室の鍵だ。そしてこちらが、私の部屋の鍵」 「えっ」 「いい機会だから、両方お前に渡しておく」 「────えっ。ちょっと待って、子元」 「何がだ」 「えっ。えっ、えっ。ええええええっ!?」 何でもない事のように、さらりと言い放つ司馬師の発言に、思わずと言った素振りで名無しは素っ頓狂な声を上げた。 驚きを隠せないのは名無しだけではない。後方で見ていた夏侯覇も同様である。 えっ?何で?意味が分からねえ。 何で司馬師殿の鍵?えっ? これって、普通に合い鍵だよな。 何なの?この溢れ出る並々ならぬ彼氏オーラ。 彼氏感溢れすぎじゃないの?司馬師殿は名無しの彼氏なの? 二人って、実はそういう関係だったの?俺の知らない間に何が起こってんの? いやいやいや。待て待て待て!!! 「そ、そんな…、どうして…?こんなもの、受け取れないよ…」 あからさまにうろたえた顔をして、名無しが声を震わせた。 しかし、動揺する名無しとは正反対に、当の司馬師といえば普段通りの冷静な面持ちで、落ち着いた声のトーンを保っている。 「お前の抱えている仕事と私の業務はいくらか被る項目も多い。遅い時間に互いを訪ねる必要も無きにしも非ずだ。書類を届けるだけで済むような用件ならば、例え私が不在時だとしても、中に入ることが出来ればさっさと置いて帰る事も出来るだろう」 「…それは、そうだけど…」 至極平静な声音を響かせる男の説明に多少は納得したような気はするものの、名無しはそれでも困惑気味の視線を司馬師の手元に注ぐ。 あー、なるほど。仕事ねえ。 確かに司馬師殿と名無しは常日頃から仕事関係の書類をやり取りしている間柄だから、相手の執務室に書類を置いて帰れるなら便利かもねえ。 うんうん、そうだね。それなら納得しない事もない。仕事関係で必要な事ならさもありなん。 はいはい、なるほど……。 じゃねえって。 執務室だけでなく、プライベートな自室の鍵まで渡してんじゃねえか! おーい、司馬師殿。それってどういう事ですか?俺、全然納得していないんですけど!? 「私の部屋の鍵は、もののついでだ。先日の飲み会の件があっただろう。変な輩に付きまとわれた際、真っ直ぐ自分の部屋に戻りにくい時の避難場所にでも使え」 「あ…、ありがとう、子元。この間は、本当に」 どうやら話の内容から想像するに、夏侯覇の知らない所で飲み会があり、そこで名無しが何かのトラブルに巻き込まれ、司馬師が何やら助け船を出したのだと思われる。 素直に礼を述べる名無しの様子からしても、その件に対する司馬師への感謝の念はきっと彼女の本心だ。 「でも、私は…。子元が私に鍵をくれても、私の方は…」 「私が勝手にしているだけの事だ。お前の鍵など求めないし、どうでもいい」 「だけど、子元」 「不要だというのなら、後で私の執務机の引き出しにでも返しておけ」 「子元……」 あのさー、だからさぁー。 彼氏なの!!!!???? 喉元まで出かかっている疑問の声を必死で飲み込む夏侯覇の数メートル先で、司馬師が戸惑う名無しに鍵を手渡す。 攻めるべき所では果敢に攻めるが、必要以上に相手を追い回す事はしない。 女が放っておかない超一級の美男子であるという己の容姿の良さをしっかりと自覚した上で、効果的な武器として存分に使いながら、そんな自らの魅力を過信しすぎる事もない。 どこまでも冷静に相手の性格を見極めて、引くべき場面ではさっと引く。 プロの色事師もびっくりの手練手管じゃねーか。 いやー、凄すぎるっす、司馬師パイセン!! ……などという感想を抱きつつ、しばしの時間経過の後、夏侯覇は己の意識が呼び戻されたかの如くハッとした顔をする。 っていうか、俺、いつまで実況者やってんの? もはや、顔出しのタイミングとか全然関係ねえし。 このまま何も知らないフリをして 『あっれー?司馬師殿、お疲れ様ですっ。こんな所でお会いするなんて奇遇ですねえー!おっと名無しも居たのか!?お疲れさん!』 なんて陽気に声をかけてみたところで、今の状況であの二人と一緒に食堂まで並んで歩いて行くのは俺もご勘弁願いたいし。 例え道中は何とか無事に過ごせても、最悪食堂でも司馬師殿達と一緒に飯を食う流れになっちまったとしたら、 『で、二人はどういう関係なんですか?』 って突っ込みたくなる気持ちを押さえられなくなるかもしれないし。 「……。」 あれこれと頭を絞った後、夏侯覇は静かに両目を瞑り、スンッ…と何かの憑き物が落ちたようにすっきりした顔に戻った。 予想もしなかった場面に遭遇し、一人で勝手にハラハラしていたせいなのか、体力と気力がごっそり奪われた気がする。何かに。 こんな日は、午後休の申請でも出してさっさと布団を被って休みたい。 夏候覇はその場で方向転換して司馬師達に背を向けると、彼らに気付かれないようにゆっくりと歩き出す。 腹は減ってるけど、食堂とかもうどうでもいいわ。 別にどうしてもって訳じゃないし。 城下町で飯場を探してもいいし、最悪弁当買ってきて部屋で食べてもいいし。 ────帰ろ。 ―END― →後書き [TOP] ×
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