異次元 【一妻多夫】 「子元、子上。起きて、朝だよ」 軽く肩を揺すられて、司馬師と司馬昭は低く呻く。 窓から差し込む明るい光の眩しさに覚醒を促され、司馬昭は大きく腕を突き出して伸びをする。 「…ねっむ…」 男性的で逞しい肉体に絡み付く布団を片手で剥ぎ取ると、ひやりと肌を撫でる冷たい空気で司馬昭は目が覚めた。 すると、目の前に自分を見下ろす名無しの顔があり、司馬昭の両目が瞬時に見開かれる。 「おはようございます。子上」 名無しは司馬昭が目覚めた事を感知し、にっこりと微笑む。 「お、おはよー…」 屈託のない笑顔で迎えられ、司馬昭は引きつりそうな笑みを浮かべた。 普段目覚めが悪く、寝起きのタイミングが一番機嫌の悪い司馬昭にしては、考えられないほどに穏やかな朝の挨拶だ。 「今日の会議の資料について、私なりに出来る限り要点をまとめて質疑応答に使われそうな所をチェックして抜き出しておきました。役に立つかどうか分からないけど」 「えっ」 驚きの声を上げた司馬昭を、名無しの優しい眼差しが包む。 「それと脱ぎっぱなしだった子上の服と、そこにあった子元の服もとりあえず畳んで置いてあります。かけておいた方が良さそうな素材の物はそっちの壁に吊るしておきました。あのままだと高価な服が皺になっちゃいそうだから、とりあえずそうしてみたんだけど…迷惑だった?」 柔らかな声で問われ、司馬昭は目をぱちくりさせた。 昨日の朝といい、飲み会といい、自分達を徹底的に避けているように感じた名無しなのだから、そもそも『起こして欲しい』という依頼すら無視してさっさと一人で部屋に帰っているかもしれないと思っていたのに。 「いや、別に…。むしろその、ありがと…」 自分ともあろう男が、一体何を口走っているのだろう。 他の女に甲斐甲斐しく世話を焼かれても、女房気取りとかマジでうざいんだよなあ…としか思わなかったのに、同じ事を名無しがしているというだけでめちゃくちゃ嬉しく感じられるのは何故なのか。 「本当?子上達が嫌だったらどうしようかって不安だったの。良かった!」 そう告げて恥じらうように綻ぶ名無しの目元と口元に、司馬昭は目が釘付けになる。 もう二度と、以前のように名無しが温かい微笑みを自分達に向けてくれる事はないだろうと思っていたところだったので、司馬昭は湧き上がる感動で胸が一杯だった。 何なのこれ、もしかして俺達って両思い? やばいわこれ。 もう運命しか感じない。 どこまでもポジティブシンキングが鉄板な司馬昭は、全てを都合よく解釈した。 だっっっ…、抱きしめたい、この笑顔…!! 「名無し…!俺────」 「あ!そうだ。子元、奥の部屋にある食事なんだけど、子元が前に好きだって言っていたものをいくつか作ってみました」 抱きしめようと両腕を絡めてくる司馬昭の胸板を、慌てて押し返しながら名無しが言う。 「丁度先日出入りの業者さんからとってもいいお野菜を頂いたところだったので、焼きナスにしたり、レモン汁にお酢を加えてマリネも作ってみました。子元、確かマリネが好きだったよね?」 「そうだが」 さすがの司馬師も、大量の飲酒に加えて睡眠時間が短い事にダメージを受けているようだ。 いつ見ても涼しげな目元を備えていた司馬師の美貌は、そこはかとなく怠惰な色気を宿し、低く掠れた声には蓄積した疲労が窺える。 食材などこの部屋になかったはずだと思って司馬師が聞き返すと、名無しはあれから一度自分の部屋に戻ったのだそうだ。 短時間で全身を洗い流し、すぐに出勤できるように身嗜みを整えた上で、必要な物だけ持って急いでこの部屋に帰ってきた。 言われてみれば、彼女が着用している服は昨夜までのデザインと異なっている。 「私は今日一日外に出る用事もなく、執務室にいると思うので、何かお手伝いできる事があったら言って下さい。前に地下の資料室をいい加減整理したいって言っていたけど、私で良ければ資料室のお掃除とか、仕分けとか荷物運びとか全部やりますので」 「……ああ」 元々名無しは他人の手助けを厭わない種類の人間で、頼みごとをすれば大抵の事は快く引き受けてくれる方ではあるが、それにしてもやけに親切だ。 自分に注がれる司馬師の訝しげな視線に気付いたのか、名無しはぴんと背筋を伸ばして司馬師を見た。 「あの、昨日は本当にありがとうございました。あの後何事も無く済んだのは、子元と子上のおかげです。本当に…感謝しています」 一気に捲し立てられ、何事かと司馬師と司馬昭は硬直する。 口にした事で昨晩の出来事を思い出し、恐怖を感じたのか、名無しの瞳はうっすらと濡れていた。 まさかとは思うが。 名無し自身も体調不良で睡眠不足気味なのは変わらないはずなのに、それが言いたくて朝早くから細々とした家事に勤しんでいたのか? あんな目に遭って怖かった、心細かった、やっぱり私には子元や子上がいなきゃダメなの! …と言って泣きながら足元に縋り付いて媚びてくれば可愛げがあるものの、純粋な肉体労働で応えようとするのが名無しらしいといえばそうなのか。 「二日酔いでもお腹に入りやすいように、おかゆみたいな軽い物も用意してあります。沢山作ったし、子上の分も十分あるよ!作り置きしておいた料理は全部冷めても美味しいメニューにしてみたから、良かったら食べてね」 心からの感謝の意を表しているかの如く、キラキラと輝く瞳で自分達を見つめる名無しの眼差しが眩しすぎて、『ああ』とか『お、おう…』とか、短い返事しか出来ない。 司馬師や司馬昭からすれば弦義達にした事は別に大したものでもなく、名無しの事に限らず自分達の邪魔になりそうな相手には普段からああして制裁を加えているだけなので、日常茶飯事なのだが。 完全に元通りとはいかなくても、昨日までよりは明らかに自分達に心を許し始めている名無しの感触に、司馬師と司馬昭は逆に不安を抱く。 たったそれだけの事でこんなにも人を見る目が変わるとか、大丈夫? こいつ、本当にチョロすぎない……? 「こんな事くらいしか出来なくてごめんなさい。今度また、改めてお礼を────」 そこまで告げて、名無しの顔が不意に固まる。 何かを思い出したように、名無しの両目がパッと大きく開かれた。 「いけない…!私、朝一番にやらないといけない事があったんだ!」 入り口の扉を振り返り、名無しが顔面蒼白になる。 「ごめんなさい、子元、子上。私、もう行くね!」 持参した荷物をまとめ、名無しは慌ただしく司馬師の部屋から飛び出す。 バタバタバタ…と遠ざかっていく名無しの足音が廊下から響き、司馬師達は何も言えずにそのまま彼女を見送る事しか出来なかった。 二人を置き去りにして疾風の如く名無しが立ち去るのは、昨日の朝に続いて二日連続である。 「…あいつ…」 「……。」 低く呻って睨む弟と同様に、司馬師もまた目を細めて廊下を眺めた。 昨夜握った名無しの手の感触と、名無しの体を支えた時に伝わってきた彼女の体温が、それぞれの脳裏に記憶と共に蘇る。 相変わらず思い通りにならない女だ。 感謝されているのは分かったが、こちらに好意を抱いているのか、何とも思っていないのか、結局どっちなんだ。 しかし、この対応は。 どう見てもこれは……。 困惑と諦め混じりの溜息を零しつつ、司馬師と司馬昭は心の中で全く同じ感想を抱く。 (────完全に、嫁なんだよなあ……) ―END― →後書き [TOP] ×
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