異次元 【一妻多夫】 「それに飲み比べという以上、俺や兄上だってあいつらと同じ量の酒を飲んでいるんですけどねえ。命懸けの勝負っていうなら条件は同じじゃねーの?」 「…それは」 「こっちだって体張ってんだよ」 気怠げな動作で枕を引き寄せながら、司馬昭が断じる。 確かに同じだけのアルコールを摂取したというのなら、危険なのは司馬師達も同じ事だ。 「そうだ…!子上…、子上は大丈夫なの?」 「ん?」 「だって、お酒に強そうに見えた弦義殿達が倒れるくらいの量なんでしょう」 万が一、二人の身体にも深刻なダメージが残ってしまったら。 考えるだけで胸中がざわつき、不安げな眼差しを男に注ぐ。 「子元や子上も同じくらいのお酒を飲んだのだとしたら…。二人の体に、もしもの事があったら…」 心配でたまらず、頼りない子供のような仕草で男の指をおずおずと掴む名無しの指先を、司馬昭が力強く握り返す。 「はは…、これが役得ってやつなのかな」 「え…」 「俺の事心配してくれてんだ?超嬉しい。その目……、昔の名無しだ……」 「…っ!?」 司馬昭は言葉通り心底嬉しそうな笑みを見せながら、熱を帯びた瞳でうっとりと告げる。 「そんな顔するなよ名無し。平気だって。俺も兄上も、そんなにやわじゃないから」 司馬師と同じく、今の彼は酔っているのだろうか。 会話の最中、一度だけ照れたように視線を伏せる司馬昭に、名無しは何故か身震いした。 「でも…どうしてそこまで」 彼らほどの男性達が何故そこまでのリスクを冒してまで弦義達とやりあったのか、名無しには分からない。 父親の同僚を助ける為だとしても、ただそれだけの関係なのに。 「何でって、伏威の野郎に胸触られてただろ?俺、ちゃんと見てたし」 「…っ!あ、あれはその、違…っ」 「庇う必要あるかよ。本当の事なのに」 寝起き特有の掠れを帯びた司馬昭の囁きに、名無しは狼狽えた。 服の上から一度撫でられただけで、時間にすればほんの一瞬の出来事でしかなかったと思うのだが、よりによってその瞬間を司馬昭に目撃されていたなんて。 「酒の席だからって好き勝手してんじゃねえぞ、下半身脳どもが」 司馬昭は恥ずかしさと悔しさでぎゅっと唇を引き結ぶ名無しに顔を近付けると、忌々しげに吐き捨てる。 「大丈夫。今度名無しに同じ事をやったら、全員確実に殺すから」 耳元で囁くように笑い、上唇を舐め取る男の舌先の動きに名無しは息を詰めた。 (待って、子上。そんなの冗談だよね…?) 恐る恐る聞き返そうとするも、視線を合わせた男の眼の色にぞっとする。 普段はとても爽やかで人懐っこい笑顔が標準装備の司馬昭が、自分の前でこのように獰猛で烈火の如き双眸を見せるようになったのは最近の事だ。 むしろ、これこそが彼の本性だったというべきか。 単なる虚勢でも調子のいいハッタリでもなく、機会と手段さえあれば、司馬昭は己の放った言葉を実行に移すだろう。 「あー…それにしても、さすがに頭痛いわ。今日の会議マジ死にそう…。名無し、俺もう一回寝るから悪いけど朝になったら起こして」 「…子上…」 そう言うや否や、司馬昭は布団を体に巻きつけて再度眠りの体勢に入ってしまった。 そういえば、確か司馬昭は今日かなり長めの会議が予定されているはずだった。 会議で使用する資料を彼の部屋まで一昨日届けたのは他ならぬ自分なので、よく覚えている。 「私も少し仮眠する。昭を起こすならそのついでに起こせ」 「子元…ごめんなさい!助けて貰ったばかりか、ベッドまで使わせて貰うなんて。私はもう大丈夫だから、どうかこっちで眠って下さい」 「断る。吐いた奴が使ったベッドでは寝たくない」 「うっ…」 「お前に抱きついて寝ようとするくらいだから、昭は平気なようだが…。弟ながらあいつの神経はよく分からん」 司馬師は呆れ顔で息を絞り、座っていたソファーの両端を軽く叩いて整えると、静かに全身を横たえる。 部屋の主を、その上、あの司馬師をベッドではなくソファーで寝かせる羽目になり、名無しの心にズンッと重い衝撃が走った。 あまりにも心苦しくて……いたたまれない。 「子元は体、大丈夫なの…?」 「お前に言われては世話無いな。全く問題無いと言えば嘘になるが、病人に心配される程落ちぶれてはいない」 「…。」 「……正確にはその表現はおかしいか。お前の場合は病からきている訳ではなく、人為的な『人災』だからな」 執務中と同様に、司馬師の声には淀みがない。 今の自分に、これ以上何が言えるというのだろう。 名無しの気遣いに素直な喜びの色を見せる弟とは異なり、余計な気遣いは不要、と明言する誇り高い司馬師に対してさらに呼びかける言葉など、有りはしないのに。 「子元…。本当に、ごめんなさい…」 消え入る程に小さな声を漏らし、名無しは背中を小さく屈めながら謝罪した。 怯えたように体を縮める名無しを一瞥し、司馬師は顔を背ける。 「……気にするな」 僅かに低く、短い声でそれだけ告げて瞼を閉じる司馬師を視界に捉え、名無しの罪悪感は一層深まった。 窮地に陥っていた自分を救ってくれた事に対する感謝の言葉や、多大な迷惑をかけてしまった事に対するお詫びの言葉とか、伝えたい言葉は沢山あるのに。 逆に自分の方が配慮して貰うだなんて、情けないにも程がある。 このバカ女だの、私の前から消え失せろだの。 いっそ口汚く罵られた方が、どれだけ気が楽だった事か。 (……。) 勢いよくベッドから立ち上がったものの、部屋の主に拒否されて、行き場をなくした名無しはしばしの間その場でポツンと立ちすくむ。 やがて、規則正しい呼吸音が名無しの耳に微かに聞こえてくると、名無しはぎゅっと拳を握り締しめた。 普段から酒に慣れていると思われる成人男性三人を潰すほどのアルコールを摂取したというにも関わらず、頭痛を訴える程度で普通に会話も出来る司馬師と司馬昭は、単なる酒豪という言葉だけで片付けるには無理がある。 アルコールの分解速度が常人と比較して数倍以上なのかもしれないが、それでもそう簡単に納得できる話ではない。 改めて、化け物レベルだと思う。 そんな彼らに自分が出来る事など何もなく、おそらくは何の手助けも必要ない。 そうはいっても、今の自分があるのは何故かと考えるなら、礼をするのは人として当たり前の事ではないだろうか。 正直、司馬師や司馬昭に言いたい事は山ほどあるし、思う事もいくらでもある。 それでも、彼らのおかげで助かった事は紛れもない真実だ。 (服を着ないと) 出来れば新しい衣服に着替えたい所だが、自分の部屋でもなく、男性の部屋にそんな都合のいい物がある訳でもない。 それに、さすがにベッドに加えて浴室まで貸して貰いたいなどど厚かましい願いを言い出せるほど、名無しは図太い神経の持ち主ではなかった。 自室に戻れば着替えがあるので、それまでの間だと思って割り切るしかないだろう。 手早く衣服を着用し、手櫛で髪型を整える。 名無しは決意を秘めた顔付きで辺りを見渡すと、司馬師達を起こさないように物音に気を遣いながら行動を開始した。 [TOP] ×
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