異次元 【一妻多夫】 「だから言っただろう。酔い潰れるまで飲み続けて、無様な姿を見せたいか?と」 ぐうの音も出ない。 肩を震わせながら司馬師の衣服を掴んで立ち上がる名無しの姿を黒い瞳に映し、司馬師は長い腕を水場に伸ばして名無しの唾液で汚れた手を洗う。 その光景を目に留めて、余計に名無しの中で司馬師への負い目と申し訳なさが倍増した。 「まあ、今回の事は単にお前が飲み過ぎたというよりも、おそらく原因は他にあるのだが」 「え…」 「お前の事だ。私や昭の忠告は素直に聞いたはずだと思うが、それ以外に何を口にした。何を飲んだ?」 司馬師は上着の内側にしまっていた布を取り出して濡れた手を綺麗に拭き取ると、名無しに向き直って厳しい口調で問い質す。 「何って…、私が、追加で注文したお酒を…」 「お前が自分で注文したのか?本当に?」 「本当に、私が自分で……あっ」 ぼんやりする頭を必死に働かせ、司馬師の質問に答えていると段々思い出してきた。 厳密には、追加オーダーに関して名無し自身が直接注文を出した訳ではない。 名無しのグラスが空っぽになっているのを目にした弦義が、彼女の代理で注文したのだ。 しかし、それは丁度そういう場面になっただけというか、ただの偶然というもので。 たまたま℃ゥ分の代わりに、親切にも弦義が女官を呼び止めて注文してくれたというだけの話であって……。 しどろもどろな口調でそう語る名無しの説明を聞いて、司馬師が形の良い眉をピクリと上げた。 「なるほど。自分達だけではなく、給仕の者ともグルだった訳か」 吐き捨てた司馬師に、名無しは驚いて目を見張る。 「子元…。それって、どういう…」 恐怖に染まった名無しの声が、震える唇から零れ落ちた。 それではまるで、あの親切な弦義達のせいでこうなったと言わんばかりではないか。 まさか、そんな事が。 「どういうも何も、そういう事だ」 司馬師は呆然と立ち尽くす名無しに視線を定めたまま、自分の服を掴み続ける名無しの手をゆっくりと引き剥がす。 「なんで…」 男の言葉をすぐには信じられず、名無しの瞳から涙が溢れる。 別に名無しに個人的な恨みがあるから狙ったという訳でもなく、ヤれそうなら誰でも良かった≠ニ考える男達の思考回路など、彼女には理解不能な部類のモノだろう。 「まあいい、話は後だ」 「……。」 「同僚女を殺してみすみす殺人者になるほど愚かな者達でもあるまいし、恐らくは命に関わる薬物や深刻な後遺症が残るといった類の物ではないだろう」 見た所、随分と悪知恵の働く輩のようだからな。 宴会場の方角を見つめ、独り言のように司馬師が呟く。 「せいぜい急激な不調を引き起こす程度で、この手の薬は時間経過とともに症状が回復する系統だと思うが……不安なら医師を呼んでやってもいい。どうする?」 こんな時でも普段と変わらない怜悧な眼で、美しい顔立ちで、感情の起伏のない声で紡がれる司馬師の問いが、名無しの脳内を緩やかに通り過ぎていく。 司馬師の言う通り、すぐに退席しなかった為に起こった事に対する謝罪。 多少強引な手段とはいえ的確な処置をしてくれた事に対するお礼。 (……ちゃんと言わなきゃ) 胃の中が軽くなったと思ったら、その代わりに猛烈な眩暈を感じ、名無しの意識が遠くなる。 声が……出せない。 「名無し!」 全身からフッと力が抜けた直後、自分を呼ぶ司馬師の声が聞こえた気がした。 彼にしては酷く珍しい、幾分焦ったような声。 司馬師程の男性がそのような声を出すはずがないので、これはきっと夢の中なのかもしれない。 ついさっきまで自分の足で立っていたと思う事自体がすでに幻想で、本当は水場に辿り着く前に通路で力尽きていたのだろう。 (早く、部屋に…戻らなければ) 今思えば、今朝もこうして子元に体を支えて貰ったんだっけ。 昨日は一晩中、子元の事が怖くて仕方なかった。 それなのに、さっき子元の顔を見た時には、たったそれだけの事でどうして泣きそうなくらいに安心してしまったんだろう。 もう何も、聞こえない。 何も……分からない。 (私は……) 沈黙が名無しの全身を包みこむ。 こんな失態を誰かに知られたら、また仲達に叱られる────。 雨音が聞こえる。 眠りと覚醒の狭間を何度も行ったり来たりしながら、泡沫の休息に身を委ねる名無しの耳朶に、窓の外で降り注ぐ雨音が優しく響く。 名無しが司馬師の前で突如意識を失ってから、数時間が経過した頃。 何度目かの寝返りを打った名無しの頬に、温かい物が触れる。 「……?」 謎の感触に誘われて名無しが重い瞼を少しずつ開いていくと、己の目に飛び込んできた光景の意外さに名無しは慌てて跳ね起きた。 「えっ…!?な、なんで?子上…っ!?」 名無しのすぐ隣で横たわっているのは、司馬昭だった。 体の下に目線を向けると大人が優に三人は並んで寝られそうな広さの高級ベッドが存在しており、名無しと司馬昭がその上でくっついて休んでいる形になっていた。 しかもその上、名無しといえばいつの間にか服を脱いで下着だけの状態になっており、司馬昭に至っては上半身まで裸である。 緩やかな寝息に合わせ、規則正しく隆起する司馬昭の鍛えられた胸筋と、長い睫毛に彩られた司馬昭の端正な寝顔を目の当たりにして、名無しは頭をガンッと鈍器で殴られたような衝撃を抱く。 「な、な、な……」 目覚める前の意識がない。 ベッドの上。 下着姿。 隣には上半身裸の男性。 よほど気が動転しているのか、言葉に詰まる名無しの背後から、硬質な声が響く。 「起きたか」 ぎょっとして声のする方を振り向くと、大きなソファーに司馬師がゆったりと腰かけて、分厚い本を読みながら優雅に足を組んでいた。 「具合はどうだ」 見渡す限り高価な調度品ばかりに囲まれた室内に、男の声が落ちる。 本物の医師に診察を受けているような錯覚を抱き、反射的に姿勢を正そうとした名無しは己の思考通りに肉体が反応する事に驚く。 さっきまでとは、雲泥の差だ。 司馬師の前で意識を手放す瞬間までは呼吸すら困難な状態だったのに、今の自分は一定のリズムで自由に酸素を吸う事が出来ている。 司馬師が言っていた通り、自分が口にしたのは時間経過と共に段々と症状が回復する部類の薬物だったのだろうか。 「それは…お陰様で随分良くなった…と、思います…。あの、それより子元。これは一体…?」 状況が飲み込めず、焦りに染まった目で名無しが司馬師と司馬昭を交互に見ていると、司馬師は開いていた書物をパタンと閉じて顔を上げる。 「言っておくが、お前が想像しているような事は何も無い。そしてここは私の部屋だ」 司馬師の言葉に促され、慌てた名無しが周囲に視線を走らせてみると確かにこの部屋は以前見た司馬師の物だった。 「見たところ汚れているようには見えなかったが、服は脱がせた。吐いた後の衣装を着たままの他人を寝室に入れる程私は寛容ではないのでな。お前の服はその隅だ」 軽く顎を上げて部屋の隅を示す司馬師につられて名無しが顔を向けてみると、確かにそこには見覚えのある自分の衣服が乱雑に放置されている。 [TOP] ×
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