異次元 | ナノ


異次元 
【一妻多夫】
 




大体、ずっと前から気に入らなかったんだ。

いいなと思った女を口説く際、好みの男性のタイプは?好きな人はいるの?と問うと返ってきたのは大抵『司馬師様』だの『司馬昭様』だった。

自分が狙う女性のタイプがたまたまそうであり、全ての女性が同じだという訳ではないとしても、彼らの名を聞く度にまたかと腹立たしく思っていたのも事実。

どうしてこのような展開になってしまったのか分からないが、飲み比べを挑まれるなら望むところだ。


この機会に、潰してやる。




「…、は…っ」

震える指先を壁に這わせて必死に進路を確かめながら、名無しは足を動かす。

あれからどうやって周りに己の状況を説明したのか、どうやって宴席を抜け出してきたのか記憶にない。

立ち上がることすら困難に思えた肉体だが、どうやらこの脱力感には波があるらしく、時折体が軽くなる瞬間に力を入れれば何とか歩けることに名無しは気付いた。

それでもやはり平常時に比べてみれば遥かに息苦しく、一歩ずつ足を進めれば進める程、胃の奥底から込み上げてくる吐き気に涙が滲む。

気持ち悪い。

気持ち悪い。

気持ち悪い。

(手洗い…、場、は……)

本当なら真っ先にトイレに駆け込みたい所だが、すぐ近くのトイレは当然の事ながら宴会参加者の利用が多く、二課や三課の人間達に目撃される事を名無しは拒んだ。

もう少し、後少しこの通路を先に進めば、確か水場があったはず。

宴会場傍にトイレがあるので、手や顔を洗うためにわざわざそこまで行こうとする人々は少なく、そこならまだ他人に見られる確率は低いはずだ。

普段は気にする事もない程度の距離なのに、今の自分には途方も無く遠くに感じる。

(あった…!!)

名無しはふらふらとよろめきながら歩き続け、ようやく目的の場所へと辿り着いた。

「ぐ…」

水場の柄杓を手に掴んだ途端、せり上がってきた胃液に喉を焼かれたような感触があり、名無しは咄嗟に上半身を倒して排水溝の前に顔を近付けた。

気持ちが悪い。

そのはずなのに、確かに上がってきたと思った胃液はそれ以上溢れ出る事がなく、上手く吐くことが出来ない。

「…ぁ…」

なんで。どうして。

吐きたくても吐けないという中途半端な苦しみに、名無しは泣きたくなる。

いっそ胃の中身ごと全てきれいさっぱり洗い流せればどんなにか楽になるかと思うのに、何度呻いても吐き気が続くだけで一向に吐き出せない自らの状態に絶望した。

このまま、この場に蹲ってしまいたい。

もっとも、こんなところで一人倒れていたら、二度と起き上がれないままになってしまう可能性もある。

離れた場所を選んだのは名無し自身なのだから、ここで誰にも見つからずに放置されたとしても仕方がない。

意気込んで知り合いのいない宴席に一人で参加してみたらこの体たらく。

全ては自業自得なのだと思い、名無しは自嘲気味に唇を歪めた。

食道を塞ぐ己の胃液と消化途中の食べ物や酒に呼吸も止められて、ここでひっそりと死んでいくのだろうか。

「名無し」

背後で、何者かの声が聞こえた気がした。

自分の名を呼ぶ、聞きなれた声だ。

「…っ…」

朦朧としていく意識の中で、のろのろと緩慢な動作で名無しが振り返ったのと同時に、力強い手で肩を掴まれる。

「おい。名無し!」

鋭い声に、ガチガチと奥歯を鳴らしながら名無しはその人物の顔を見上げた。

ああ、このいつ聞いても凛とした声。

夜風に吹かれてサラサラと靡く、艶やかな黒髪。

意志の強さが見て取れる、美しい宝石のような瞳。どこまでも真っ直ぐな眼差し。


────子元だ。



「返事をしろ。私の顔が分かるか。私の声が聞こえるか?」

いつも冷静な彼にしては切迫した気配を滲ませる声音が響き、名無しは今にも閉じそうになる瞼を懸命に開く。

誰にも見られたくないと思っていたのに、男の姿を目にした瞬間、込み上げた感情の中に『安堵』が含まれている事に名無しは自分自身で驚いた。

何故、司馬師がこんなところに。

湧き上がる疑問は言葉にならず、名無しはただひたすら喉を震わせて浅い呼吸を繰り返す事しか出来ない。

「吐けないのか?」

この場所、そして先刻までの名無しの姿勢、両目一杯涙を浮かべて苦しそうに肩で息をする彼女の姿を目にしただけで、名無しの置かれている状況を司馬師は瞬時に理解したようだ。

力なく名無しが頷くと、司馬師は舌打ちをしたい衝動を堪えつつ、名無しの口元に手を伸ばす。

「苦しいだろうが我慢しろ」

そう言うが早いか、名無しの顎を掴み、空いている方の手で彼女の口腔内に長い指を強引にねじ込む。

男らしく節ばった人差し指を喉の奥に突っ込まれ、食道の入り口辺りを横に広げる感じで刺激されると、反射的に強烈な吐き気が名無しを襲う。

その反応を見極めたように司馬師がズルッと指を引き抜いた直後、堪える事が出来ずに名無しは水場に再び顔を突っ込んだ。

逆流した胃液が名無しの喉から勢い良く溢れ出し、名無しは体を折り曲げて嘔吐した。

ゲホゲホと、苦しげに何度もむせながら、胃が空になるまで全てを吐き続ける。

吐けた。

吐くという行為自体は到底楽に出来るものなどではなく、胃の内容物が逆流するのは気持ち悪いし苦痛で仕方ないのだが、吐いてしまった後は大分すっきりするものだ。

自らの手が他人の唾液で汚れる事も厭わず、指を入れて吐かせてくれた司馬師に感謝の気持ちを抱きつつも、涙と鼻水、そして吐瀉物でぐちゃぐちゃになった今の自分の姿を自覚して、名無しは嫌悪感で押し潰されそうになる。

洗わなきゃ。早く。

幸い、上手い角度で吐けたおかげで衣服に液体がかかる事はなく、汚れた服を着て自室に戻る事態は避けられたものの、恥ずかしさは同じである。

目元も鼻も、口元も全て繰り返しバシャバシャと水で濯いだが、だからといって司馬師の眼の前で盛大に嘔吐した事実が消えてくれる訳でもない。

毒素を吐き出せた事と、冷たい水の感触が怠い体に心地良く、何度も顔を洗っている内に先程よりも多少体調が良くなったような気がした。

気が済むまで水を浴びた後、グラリとふらついた名無しはそのまま膝から崩れ落ちそうになる。

「…ぁ…」

がしっと腕を掴まれ、体が支えられている感触を覚えた名無しは涙で濡れた両目で男を眺めた。

「……少しは楽になったか」

夜の闇にも似た色を纏う、司馬師の綺麗な瞳。

平静な眼差しと声音でこちらを見下ろす司馬師の顔を見ていると、みっともない姿を晒している己の有様がより一層惨めに感じてしまう。

「…ごめん、なさ…い…」

これがお前の現実なのだと。

改めて突き付けられた事実に対して、再び鼻の奥にツンとしたものが込み上げる。

司馬師や司馬昭の命令に反発していたくせに、その結果がこれなのか。


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