異次元 | ナノ


異次元 
【熱視線】
 




夜風の冷たい夜だった。



8月下旬。季節はまだまだ夏真っ盛りという事でずっと熱い日々が続いていたが、三日ほど前から今日の昼頃まで立て続けに降った豪雨のせいで一時的に気温が下がっているようだ。

雨上がりしてからまもないせいか空気中の湿度が高く、じめっとした蒸し暑さも感じるが、それでも時折冷えた風が肌を撫でていくので幾分かは過ごしやすい。

この時、名無しは一人豊臣城の中庭に出ていた。

ここ一ヶ月あまりの長きに渡り、名無しが所属している豊臣軍は敵軍との戦闘の最中にあった。

主君である秀吉が抱える豊臣軍の優秀な武将達や兵士達の活躍もあってつい先日見事敵軍との戦に勝利を奪い取り、その知らせを耳にした城の者達や国民達の心は一気に歓喜の色に染められた。

そんな英雄達の帰還とあって多くの人々が興奮気味の表情で武将達を出迎え、今宵彼らを労う宴が開催されていた。

三成と共に豊臣軍の参謀として従事していた名無しもまたこの宴に参加していたが、城の者達からの祝杯や賛辞の言葉を受け取り、秀吉やねね、同僚武将達や女官達と一通り酒を飲み交わし、挨拶を交わし終えると、名無しは頃合いを見てそっと一人宴を抜け出した。

(……ちょっとお酒を飲み過ぎたかな)

自分の周りを吹き抜けていく冷たい風が、火照った体に心地よい。

お祭りムードの勢いのままに少々酒を飲み過ぎ、食事も取りすぎ、しゃべり疲れたという理由もあっての事だが、名無しが誰にも見付からないようにしてこっそり席を離れたのは他にも大きな理由があった。

中庭にある大きな石に腰掛け、ぼんやりとした表情で名無しが夜空の星を見上げていると、不意に彼女の後方で『ジャリッ』という砂を踏むような音がした。

何者かの接近に気付き、名無しがハッとして音のする方を振り返ると、そこにはさらに彼女をハッとさせるような人物が立っていた。

戦場にいる時の豪奢な鎧姿とは違い、ラフな服装に着替えてはいるが、それでも戦闘時と同じくらいに大きな存在感と強烈なオーラを身に纏ってそこに立ち止まっている若き英傑。

いついかなる時も常に涼しげな容貌と品格を備え、あらゆる物事に対峙する男性。


九州の猛将・高橋紹運の血を引く息子であり、男児の無かった大友氏の家臣・立花道雪にその優秀な器量と血筋を見込まれて是非にと立花家の養子に請われた男────立花宗茂である。


「……宗茂……」


名無しの唇から、ポツリ、と男の名が漏れる。

男を見つめる名無しの顔は、どこか怯えたような、青ざめているような印象があった。

対する宗茂はと言えば、そんな名無しのとは対照的に落ち着き払った態度で悠々と名無しを見下ろし、フッと口元を綻ばせる。

「急に君が立ち上がって出て行くのが見えた。しばらく待っていても戻ってこないので少々心配になってな。君は何かあるとよくこの中庭に来るようだから、今夜ももしかしたらここにいるかもしれないと思って」

宗茂の言葉を受けた名無しは見る間に頬をカーッと赤らめ、動揺したような顔をする。

誰にも見られていないと思っていたのに、まさか宗茂に見られていたとは。

よりによって、この人に。

自分の行動パターンまですっかり読まれてしまっていた事に名無しはどうしようもない羞恥を覚え、無意識の内に頬が上気する。

だが、心のどこかでそれを嬉しいと思っている自分が居る。

宗茂がそんな風にして自分の事をちゃんと見ていてくれた。何かあった時にはここに来ると、自分の居場所まで探し当ててくれた。

そんな事を考えて、余計に名無しの心は複雑な思いに駆られていく。

「どうしてこんな所にいるんだ。夏場とはいえ、夜中に女性が一人で外出など…。城の中だからまだ安心なのかもしれないが、君の身に何かあってからでは遅い。三成でも清正でもいいから、せめて誰か男の武将を一人でも伴って来た方がいいんじゃないか?」

穏やかな、それでいて名無しを窘めるような強い意思を含んだ口調でそう告げる宗茂は、女性であれば誰もがドキッとしてしまうくらい端整な顔立ちをした男性だった。

優れているのは見た目だけではない。

武術においても『剛勇鎮西一』と称されるくらいに素晴らしい天賦の才能を持ち、日々の鍛錬と実践で鍛えられた長身の体躯は同性から見ても憧れの対象となる程に見事な肉体美を誇っている。

しかも、憎らしい事に彼の魅力はそれだけでもない。さらにある。

名無しに語りかける時の宗茂の声はうっとりするくらい低くて心地よくて、男性的な魅力も兼ね備えていて、聞いている名無しの方が思わず心が震えてしまうくらいに魅惑的。

「……ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで、外に出て冷たい風に当たりたくて……。三成達はみんなまだ楽しそうにお酒を飲んだり食べたりしてたし、邪魔しちゃいけないと思って。……ギン千代は?」

火照った顔を宗茂に見られまいとして、さりげなく俯きながら名無しが聞く。

「彼女ならまだ宴の席だ。ギン千代は戦の腕も立つが、酒の強さもそんじょそこらの男に比べて底知れぬものを持っているからな。俺が退席する時も左近に飲み比べをしよう≠ニ持ちかけられて、一つ返事でその挑戦を受けていた」
「そう……」

宗茂の答えを聞いた名無しの瞳に、少しだけホッとしたような安堵の色が滲む。

名無しが宴を途中で抜け出してきたのは、ギン千代の事が一番大きな理由だからだ。

否、正確に言うならこの宗茂とギン千代二人の存在がと言った方が正しい。

自分の愛する男性が他の女性と並んで座り、仲睦まじく談笑し、酒を飲み交わしている光景を見たくなかったからだ。




名無しは、宗茂に恋をしていた。


彼に惹かれたのは初めて出会ったその時からのようにも感じるし、同じ軍の仲間として一緒に行動している内に段々惹かれていったような気もしている。

豊臣軍との協力体制という事で秀吉に宗茂を紹介された時、名無しは自分でもよく分からない不思議なときめきと胸の鼓動を感じていた。


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