異次元 【一妻多夫】 自分の願望とはかけ離れた展開になってしまったが、こうなっては仕方がない。 司馬師の言う通り、今夜は早く帰ろう。 名無しがそう思って席を立とうとした瞬間、白くて細い女性の手が彼女の面前に伸びてきて、テーブルの上にコトリと新しいグラスが置かれた。 「大変お待たせ致しました。遅くなってしまい、誠に申し訳ございません」 「あ…」 謝罪の言葉とともに女官の手から差し出されたグラスには、並々と酒が注がれている。 今の今まですっかり忘れていたが、そういえば弦義が追加オーダーを入れてくれていたはずだ。 それにしてはやけに時間がかかり過ぎていると思った。 まるで司馬師や司馬昭が立ち去ったのを見計らって運ばれてきたようなタイミングだが、それだけ今日の宴会は酒の注文が多く、単に給仕の人間の人手が足りていないというだけの単純な理由かもしれない。 (どうしよう) 退席しようと決意した矢先の出来事に、名無しはしばしの間考えた。 まだ一度も口を付けていない、未使用の酒だ。 追加したのですが、お酒が来る前になんだかお腹が一杯になってしまって…等と説明して他の人間に回すという選択肢もある。 それか、このまま女官にその旨を伝えて『申し訳ないけど、他に注文される方がいたらそちらに回してください』と返却する道もあるが、慌ただしく動き回る女官の姿などすでに名無しの前から消えている。 『戻ってきた時に残っている酒は飲むな』 『他人から回ってきた酒も飲まない方がいい』 グラスをじっと見つめながら、名無しは先程の司馬師と司馬昭の忠告を思い出す。 これはたまたま*シ無しのグラスが空になっている事にたまたま°C付いた弦義がたまたま°゚くにいた女官を呼びとめて、善意≠ナ追加してくれたものだ。 そこに他意はないし、この流れからすると司馬師達が言っていた種類の酒には該当しない。 だったら、飲んでも大丈夫かな? (この忙しそうな状況でもう一度女官を呼ぶのも申し訳ないし、かと言って、良かったらどうぞ!って自分のお酒を回せるほど気心の知れた相手が同じテーブルにいる訳でもないもんね) 食べ物を粗末にするのは良くない事だ、どうしても満腹な時や体調が悪い時には仕方がないが、一度注文した食事をむやみに残してはいけないと幼い頃から言われて育ってきた名無しには、このまま酒を残して立ち去るのは内心気が引ける行為だった。 胃の空き具合から想像してみても、あと一杯くらいなら飲み干しても問題なさそうだ。 ゴクリ。 液体を飲み込んでみると、予想以上に軽い飲み口に感じられたそれは程良く名無しの喉を潤す。 司馬師達と不毛な口論を続け、知らず知らずのうちに喉の渇きを覚えていたせいなのか、名無しは自分でも驚くほどのハイペースでゴクゴクと酒を飲む。 言い訳に感じるかもしれないが、鼻腔をくすぐるアルコールの香りに比べて喉の粘膜に大した刺激は無く、まるで水のように飲みやすく感じたのだ。 女性達が抵抗なく沢山の量を飲み込めるよう、悪意ある者達の手によってわざわざ調整≠ウれたものだという事を、知りもせずに。 (────…!?) グラスに入っていた液体の3分の2程飲み干した時点で、名無しの心臓が『バクンッ』と大きく跳ねる。 少し飲んだだけでは何ともなかったのに、一定量を体内に取り込んだ途端、彼女の肉体に異常が表れた。 秒の速さで急激に襲ってきた二日酔い、とでも言うのだろうか。 それとも、大量の油にまみれた料理や、体質に合わない材料で全て構成された食事を無理やり胃の中に詰め込まれた時に襲ってくる強烈な嘔吐感。 今日に限って飲み過ぎたという訳ではなく、普段なら平気な酒量のはずなのに、突然込み上げる悪寒と吐き気に名無しは全身を震わせる。 「…っ、ぁ…」 ガチガチと、奥歯が鳴る。 気持ち悪さでその場に倒れそうになりつつも、名無しは懸命にテーブルに手をついて自らの体を支えた。 酒を飲んで、こんなに大勢の人の目がある前で倒れたり、吐き戻しするなんてとんでもない醜態だ。 自分一人が悪く言われるというならいざ知らず、そんな女と共に仕事をしている司馬懿まで『よくあんなだらしない女と一緒に働いていますね』、などと言われてしまう可能性がある。 陰口を叩かれるのは司馬懿だけではなく、もしかしたら自分の隣で座って話をしにきた司馬師や司馬昭まで巻き添えを食うかもしれない。 耐えなくては。 「……っ」 立ち上がろうと思った。 歯を食いしばり、両手に力を込めて体を起こそうと努力してみたが、指先に全然力が入らない。 名無しの額にはみるみる脂汗が滲み、顔色も次第に血の気が引いていく。 名無しが声を出せない為か、目立つような動作をしていなかった為か、周囲に居る者達も彼女を襲うトラブルには全く気付かず、思い思いの会話で盛り上がっていた。 むしろこの時、距離を置いた場所から冷静に対象物の様子を観察できるからなのか、離れた場所にいる人物の方が彼女の不審な様子を読み取った。 全ての元凶である弦義達。 そして一旦彼女から離れた後、変わらずに名無しの動向に気を配っていた司馬師達も、ほぼ同時に名無しの不調を察知した。 (────途中から司馬兄弟がやってきた時にはどうなる事かとやきもきしたが、どうやら無事に薬物入りの酒を飲ませる事に成功したらしいな) こうなればあとはこっちのものだ。 いつも通り体調が悪くなった女を親切に介抱するフリをして、誰かの部屋にでも引きずり込むか。 名無し殿を気にして後を追ってくる奴がいないようにその場をフォローする人間も置いて、連れ込み部屋の扉の前にも念の為に見張りを置く。 意識がなかろうか、一切反応がなかろうがどうだっていい。 と、いうよりも、無気力で何も抵抗できない方がよっぽど好都合だ。 行為の最中にゲロをぶちまけられたらさすがに萎えるが、こちらに被害が及ばないように頭から紙袋でも被せてやればいい。 顔が隠れている方が、好きな女や好みのタイプの顔を自由に想像しながらヤレるという楽しみもある。 女なんてただの穴なんだから、穴さえちゃんと使えれば何の問題もない────。 (さて…、と) 段々と酔いが醒めてきた伏威、そして弦義と応矯の三人はそんな事を考えながら互いに目配せをすると、軽く頷いた弦義が一番に立ち上がった。 こういった場合の介抱役として幾度も経験を積んでいる弦義が名無しの元へ行こうとした寸前、大きな黒い影が弦義の前に現れて彼の行く手を阻む。 「どなたかと思えばひょっとして弦義殿ではないですか!こんな所でお会いできるなんて思ってもみませんでしたよ」 「なっ…、司馬昭…殿…!?」 突然姿を見せた男の正体があまりにも予想外すぎて、着席していた応矯と伏威も思わずギョッとした顔をする。 [TOP] ×
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