異次元 | ナノ


異次元 
【一妻多夫】
 




「もう少しお静かに会話を楽しまれたら如何かな。最悪、私共はこの場を見られても別に構いませんが、我が弟とそのように仲睦まじくされているのを見られてお困りになるのは貴女の方かと」
「くっ…。司馬師殿…!」

埒が明かない。

単純に言い返していただけでは一向に解放される気配がない事を悟り、名無しは何とか手を引っ込めようとチャレンジしつつも司馬師に向かって懇願した。

「司馬師殿っ、どうか司馬昭殿をお止め下さい。お願いですから…」

自分の頼みは却下されたとしても、兄の命令であればさすがの司馬昭も引き下がるのでは?

しかし、名無しのそんな切なる願いも司馬師には届かない。

「無理でしょうな。ご覧の通り、愛情深い弟ですので。兄の私がいくら叱咤しようが、想い人の手はそうやすやすと離さないと思いますが」

棒読み……完全に棒読み……ッ!!

まるで気持ちの籠っていない司馬師の返答に、名無しは絶望した。

自分でも似合わない台詞を吐いているという自覚はあるのだろう。

嫌そうな顔で告げる司馬師の本音を知ってか知らずか、愛情深いと称された弟は満足そうに笑っている。

「司馬師殿!」

堪らずに伸ばされた名無しの指先が、司馬師の衣服の裾をギュッと握った。

そこを何とかお願いします。お願いですから!

このままではもっと広範囲にしがみつかれると思ったのか、司馬師は軽く眉根を寄せると、やれやれといった様子で口を開く。

「では、お約束して頂けますか」
「約束?」
「要は貴女のご希望と我々の要求が一致すれば良い。飲み会が始まってからそろそろ二時間近く経過しているはずだ。仕事上の付き合いだというのなら、十分な時間だと思うがな」

名無しとの会話を続けているうちに、段々と面倒臭くなってきたのか、いつの間にか司馬師の口調が元に戻っている。

「もう帰れ。それとも酔い潰れるまで飲み続けて、無様な姿を見せたいか?」

司馬師の意見には一理ある。

さすがに開始10分や20分で退席するのは早すぎるだろうが、二時間も滞在すれば無事に浮き世の義理を果たせたと思う。

しかしながら、そうなると当初の目的が達成できない。

名無しにとってたまには職場の飲み会に顔を出しておく、というのは第一の目標だが、この機会に人脈を広げておきたいというのが第二の目標だった。

今の仕事を円滑に進めていく上で、今後新しい人間関係の構築も必要になってくるかもしれない。

二課と三課の合同懇親会で色々な人と知り合いたいと考えていた所だったのに、現時点でまともに話が出来たのは以前からの知り合いである丙鈴と、新規で出会った弦義達三名だけ。

思い切って参加した割には大した成果を挙げられていないという現実が、名無しの中で心残りとなってこのまま帰宅するという考えを鈍らせた。

今のこの状態では、わざわざここまで来た意味がない。

「子元の言う事はよく分かります。でも、私はまだ────」

強張る名無しの声には、司馬師と意見を違える覚悟が満ちていた。

苦しげな面持ちで告げる名無しを、司馬昭が横目で見る。

「まだ、何だよ。まだ何か物足りないとでも」
「せっかくの合同懇親会なのにご挨拶出来ていない方も沢山いるし、浅いお付き合いの方ばかりだから。出来れば色々な方と仲良くなって、異業種間の情報交換とか、もっと深いお話とか…」
「はあ、そうですか。他の奴らとそんなに親しいお付き合いをしたいわけですか。ここにいる連中ともっともっと深い仲になって、他の男の裸でも見たいんですか、そうですか」
「ば…っ」
「俺や兄上以外のチンコが勃起している姿や、射精する瞬間を見たいわけ?」
「子上!!」

あまりにも直接的で卑猥な言葉をぶつけられ、名無しの全身からドッと冷や汗が流れ出た。

「だとすれば、名無し殿も相当好き者ですねえ」

一見、にやついた顔立ちで語るただの軽薄男のように見せながら、燃えるような熱を帯びる司馬昭の双眼に肌が粟立つ。

分かっていてわざとやっている。

こういう言い方をすれば、名無しが自分の思い通りに動くだろうと確信した上で、司馬昭は名無しを煽るのだ。

赤くなったり怒ったりした名無しが、売り言葉に買い言葉とばかりに『もういい!』と身を引く可能性が高いという事を知っていて。

「違いますっ。見たくなんかありません!」
「ですよねー?ならいいじゃないですか、今日はもうこの辺で切り上げても」
「そ、それは…」
「はい、名無し殿がお帰りでーす」

焦りと羞恥で顔から火が出そうな名無しを眺め、司馬昭はげらげらと笑う。

口元だけは笑っているが、その眼は少しも楽しんでなどいない。

そして、司馬昭がこんな眼をしている以上、彼らの提案に逆らってしつこくこの場に居残り続けたら、どんな報復が待ち受けているか予想もつかない。

弟を咎める訳でもなく、黙ったまま意味深な視線を送ってくる司馬師の態度を見れば、兄の方もまた弟と同じ考えであるという事くらい、名無しにも分かった。

己が置かれている状況の悪さに背筋がゾクゾクする。

正直、彼らが怖い。

逆らえない。

「……っ。分かりました。今日はもう、帰ります……」

不満は、声にはならなかった。

これ以上、今の司馬師や司馬昭に反抗しない方がいいと直感して、名無しはがっくりと肩を落とす。

「よろしい」

名無しのすぐ傍でからかうような司馬師の声が響いた瞬間、彼女の手を覆っていた司馬昭の掌の感触がフッと消えた。

自分達の命令に名無しが素直に従う姿勢を見せた事に、二人とも満足したようだ。

せめて最後に、丙鈴にだけでも挨拶をしておきたい。

そう思った名無しはちらりと丙鈴のいる席を眺めたが、

「余計な寄り道をせずにさっさと帰れ。いいな」

と、名無しの気持ちを先読みするようにして司馬師が釘を刺す。

名無しの考えなど全てお見通しと言わんばかりのこのエスパーっぷりも、やはり父親を彷彿とさせる。

「席を離れる時は酒のグラスを空にしておくか、持ち歩け。戻ってきた時に残っている酒は飲むな」

ごく事務的な口調で、司馬師は言った。

席を立つ兄に続いて、司馬昭も腰を上げる。

「他人から回ってきた酒も飲まない方がいい。やたらと酒を飲ませたがる奴とか、俺の酒が飲めないのか云々言ってくる奴も無視していいぜ。無視が出来ないなら適当に話を誤魔化すとか。女相手の時だけ執拗に酒を勧めてくる男って、大抵ヤバいからなあ」

司馬昭はそう言うとポン、と軽く名無しの肩を叩き、その場から立ち去った。

名無しが顔を上げた時にはすでに司馬師と司馬昭はそれぞれ別の方向に移動しており、挨拶回りを再開しているようだった。

方々から声をかけられ、人波の中に吸い込まれて行く彼らの様子を見ていると、しばらくは戻ってこないだろう。

ようやく解放されたという実感がひしひしと湧き上がり、名無しは安堵の吐息を漏らす。


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