異次元 【一妻多夫】 「私に見られるのは不快だ、という訳か」 「…!違う…。私はただ……」 「何だ」 「子上もそうなんだけど、子元の眼は私にとって心臓に悪すぎるから。そんな風にしてじっと見つめられると、胸が締め付けられるように感じて苦しくなるの。息が出来ないくらい」 言葉通り、片手でギュッと胸を押さえて息苦しそうな素振りを見せる名無しの姿を前にして、司馬師はふぅん、と短く答えた。 名無しに質問しているように見えて、司馬師の問いは単なる事実確認だ。 彼女が完全に自分の操り人形になっている訳ではないという判断、そしてそんな女がこの世に存在している事が理解しがたいという疑問を抱いているのは本心だろう。 それでも、『不甲斐なさを感じている』などという一見殊勝にすら思える表面上の言葉とは裏腹に、彼は自分の眼力に相当な自信を持っている。 弟である司馬昭もまた司馬懿の能力を受け継いではいるが、兄と弟では魔眼の発動条件が異なるように名無しは感じた。 司馬師は使用の有無を己の意志でコントロール可能に思えるが、司馬昭の場合、彼が本気で女を落とそうと決めた瞬間に自動的に放射するように見受けられる。 父親譲りの加虐嗜好と眼力に対し、両方自覚有りな司馬師は、タチが悪い。 父親譲りの加虐嗜好と眼力に対し、両方自覚無しの司馬昭もまた、タチが悪い。 「呼吸に支障が出なければいいのだな」 「え…?」 「加減が難しいが…上手く調整してやろう。お前が苦しくない程度に、気持ち良く迫ってやる」 と、薄い笑みを浮かべながら、さらに威力を増した色っぽい流し目を注がれて、名無しは余計に呼吸困難な状態に陥った。 これの一体どこが『上手く調整』なのだろうか。 整ったアーモンドアイの奥底で、魔性の力を秘めた閃光が妖しく輝くと、名無しは今度こそ息が止まるかと思った。 加減どころか、反対に威力が倍増している。 悩殺レベルだ!! 「子元…!や、やめて…っ」 一層赤くなる頬を何とか抑えようと、名無しは何度も首を振る。 悪魔の誘惑≠ニは、きっとこんな感じなのかもしれない。 美しい男性の姿を形取った上級悪魔の誘いを必死で跳ね除けようと試みる名無しの努力を台無しにするかの如く、さらなる試練が彼女を襲う。 「あれ〜?誰かと思えば名無し殿じゃないですか。こんなところでお会いするなんて偶然ですねえ」 「なっ……、子上……!?」 突然背後から話しかけられ、振り向いた視界の先に存在する男の姿を認めると、名無しの喉がひゅうっと変な音を出して痙攣した。 端正な顔に見事なまでの営業スマイルを張り付けて、司馬昭が立っている。 「お隣、空いてます?ていうか、空いてますよね」 「い、いえ…その…、ここは他の方が座っていらっしゃって、もうすぐ戻られるかと思うので…」 名無しは焦りまくりながらも咄嗟に思いついた言い訳を提示したが、司馬昭は全く動じない。 「そうなんですか?さっきからずっと見ていましたけどそんな気配は全然ないけどなあー。戻ってきたら戻ってきたで、その時に交替すればいいんじゃないですか。よろしければご一緒しても?」 「えーっと…。司馬昭殿は兄上様と同じでとっても人気のある方ですし、話をされたい方が大勢いらっしゃると思いますので、私なんかよりも他の方とお話された方がよろしいかと…」 「ははっ、細やかなお心遣いありがとうございます!でも大丈夫ですよ。もうあらかた席を回りましたので」 「あ…の…」 司馬師の悩殺ビームで思考停止していた脳を何とか再起動させ、どうにかして司馬昭の同席をブロックしたいと思う名無しの反論など即座に封殺。 「むしろ、真っ先に馳せ参じるべきでしたのに誠に申し訳ございません。我が父と長年一緒に仕事をされている方へのご挨拶が今頃になってしまい、不義理もいいところです」 「…司…」 「こんな事が父に知られたら、厳しい叱咤を受ける事間違いなしです。という訳でお願いしますよ名無し殿。ここはひとつ、不出来なわたくしめを助けると思って同席させて頂けませんか?」 くっ……。 こ、この男、出来る!! ダラダラと、変な汗が名無しの手足に滲む。 衆人環視の中でこんな風に下手に出られ、丁寧な口調で同席を請われてしまったら、先程の司馬師と同様に受け入れるしかない。 乗り気でない交渉事を依頼された時は 『いやー、俺、口下手でして。あれこれ言葉を考えるのが苦手なんで、他の人間に頼んで貰えません?』 とかなんとか言ってするするとお役目から逃れていくくせに、随分滑らかに口が回るものだ。 考えてみれば、あの司馬懿の遺伝子を受け継ぐ息子に限って口下手≠ネど考えられない。 (何が口下手なもんですかっ) 将棋やチェスで言えば、完全に詰んでいる。 逃げても逃げても、その先にすかさず駒を配置して相手の逃げ道を塞ぐようなこの話術。 仲達にそっくりじゃないの!子上の大嘘つきっ!! 「俺の顔がどうかしましたか?」 「い、いいえ?司馬昭殿は、本当にお父様によく似ていらっしゃるのですね。今の会話の流れ、まるで司馬懿殿とお話しているみたいでしたので」 「いやー、あの父と比べれば俺なんてまだまだとても。恐縮です」 「先程もお伝えしました通り、司馬昭殿ともっと沢山お話されたいと思っていらっしゃる方を押しのけて、私のような者が司馬昭殿を独占させて頂くのは非常に心苦しいものですから…、私はこの辺で…」 名無しはあはは、とぎこちない愛想笑いを浮かべつつゆっくりと腰を上げ、さりげない風を装って席を移動しようと試みる。 しかし、司馬昭もまたさりげない風を装って彼女の肩に手を置くと、強過ぎず、かと言って名無しの行動の自由を制限するには十分な程度の体重をかけてグッと彼女の体を押し戻した。 「何を仰いますやら名無し殿。それでは失礼しますね」 「ちょっ…、あの、司馬昭殿!?」 名無しが制止する間もなく、司馬昭は慣れた所作で名無しの隣に腰を下ろす。 逃げられない……!! 「余計な小細工してくれちゃって…」 気のせいかと錯覚しそうな程に小さな声が自分の近くで聞こえ、名無しは思わず目を丸くした。 司馬昭はそんな名無しの反応を楽しげな表情で受け止めると、自分達以外の人間に悟られないくらいに低く抑えた声音で彼女に語る。 「そんな見え見えの嘘を並べて俺を追い払おうったって、そうは問屋が卸さないんだよなぁ」 爽やかで男前な司馬昭の笑みは、今までと全く変わらない。 名無しにとって『愛すべき仲間』で『親しい隣人』であり、『普段から家族ぐるみで付き合いのある同僚の息子』のままだ。 だからこそ、怖い。 表面上から受ける司馬昭の印象が、あまりにも変わらなさすぎるのが。 彼から受けた強引な仕打ちの悲惨さと、今の自分に注がれる視線の獰猛さに名無しは凍りつく。 [TOP] ×
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