異次元 【一妻多夫】 「なんでもありません。それより子元、今日は大人気だね。あっちからもこっちからもお声がかかって引っ張りだこだったでしょう」 話題を逸らそうとした名無しに、司馬師が視線を合わせる。 最初から予想できていた事ではあるが、特に女性陣からのお誘いが凄かった。 今思えば、それ以前に 『何で子元と子上がこの飲み会に参加しているの!?』 と本人達に直接問い質しても良かったのだが、残念な事に司馬師の濃厚な色香に当てられて動揺しまくっていた為、今の名無しはそこまで頭が回らない。 「ふん、別に。いつもの事だろう」 「えっと…。まあ、そうだよね」 世の多くの男性からすれば羨ましいとすら感じられる状況を、どうでも良さそうな口振りで司馬師が答える。 「それに……」 「……?」 「散々人の事を自分の席に招いておきながら、いざ私が隣に座ると黙り込んで何も言わなくなる女達が何人もいるのだが、あれは一体何なんだ。誘われて席に着いた以上、こちらが気を遣って何度か話を振ってやっても『はい』とか『そうですね』とか簡単な言葉しか返さない輩もいるし、何がしたいのか理解に苦しむ」 私だって、そんなに暇な人間ではないのだが。 そう告げて不愉快さをあらわにする司馬師とは対照的に、彼の話を聞いた名無しは両目をパチパチッとしばたかせ、不思議そうな顔をした。 「えーっ、そう?勿論、そう思う子元の気持ちも分かるけど、私はその女性達の反応が良く分かるような気がするよ」 どちらかと言えば自分はむしろその女性達に共感するし、そうなってしまう彼女達の気持ちがとても良く理解出来る。 司馬師本人にはあまりピンとこない事なのかもしれないが、世の多くの女性にとって、 @司馬師のような男性が近くにいる Aそれどころか、すぐ隣に座っている Bさらに、彼に話しかけられる というように、司馬師との接近の度合いが進めば進むほどに、硬直度が増してしまうのではないだろうか。 本当は、もっと沢山司馬師と話がしたいはずなのに。 彼に話しかけて貰えるなんて飛び上がらんばかりに嬉しくて仕方ない事なのに、いざ憧れの君である司馬師が超至近距離に存在していると、どんな顔をして彼と目を合わせればいいのか、どんな受け答えをすればいいのか分からない。 こんな事じゃいけない。司馬師に対してとても失礼な事をしているのだと分かっているはずなのに、極度の緊張で完全に頭の中が真っ白になってしまって、もうどうする事も出来ない。 本人の意志とは関係なく、そんな状況に陥ってしまったのではないのかと、名無しは柔らかい表現を混ぜつつ司馬師に訴えた。 「よりによって、それをお前が言うか」 司馬師は残っていた水を全て飲み干すと、低い声音で吐き捨てる。 「そんな…、何でそんな言い方をするの?私はただ、本当にそう思ったから言っただけなのに…」 「お前の主張が、どれも説得力が皆無だからだ」 「どうして?現に子元の近くに座っている女性だけじゃなく、給仕の女官達まで子元の前にお酒やお料理を運んでくる時には皆赤い顔をしていたり、上ずった声で話をしているでしょ」 「貴族女や高級文官どもは知らんが、女官と私の間には明確な身分の差が存在している。私の姿形とは関係なく、元から緊張しているだけだろう」 「それは…そうかもしれないけれど…。でも、子元と同じ位の身分の男性が他にも何人もいたとしたら、やっぱり子元の傍にいる方が断然ドキドキすると思う」 現に今この時だって、子元と私の会話の内容が気になるのか、ほんのりと頬を染めながらチラチラとこちらを盗み見している女の人が何人もいるのに。 ────自分の魅力がどれほどのものなのか、きっと子元は分かっていないんだよ。 素っ気ない司馬師の回答にもめげず、そう説明し続ける名無しに司馬師が目を向けた。 見る者を震わせる程に冷淡で、それでいてどこか意味深な眼差しだ。 「ただの世辞だとはいえ、よくもそこまで心にも無い台詞がすらすらと言えるものだ」 再度顔を背ける司馬師を、名無しが驚いた顔で見上げる。 「お世辞なんかじゃないよ。子元こそ、どうしてそこまで否定するの?」 「では逆に聞くが、本人自身に全くその気がない台詞を平気で口にする行為が、世辞以外の何だと言うのだ?」 私自身に、その気がない? 司馬師の言わんとする事がすぐさま理解できず、名無しはつい首を傾けた。 すると、司馬師は彼女に向き直って唇を開く。 「私に見つめられたところで────何とも思わないくせに」 ギンッ、と。 司馬師の瞳が瞬き、鋭い輝きを放った気がした。 その瞬間、大きく口を開けた暗闇の世界に引きずり込まれそうな錯覚を抱き、名無しの全身が硬直する。 (曹……、丕……。仲、達……!?) 一瞬────彼らかと思った。 ゾクゾクッと、頭の天辺から爪先まで一気に電流が駆け抜ける。 数えきれないほどに身に覚えがある感覚に、名無しの額に細かな汗がうっすらと浮かぶ。 本当に、嫌というほどに、司馬師の瞳は司馬懿に酷似していた。 その瞳で女を射抜けばどんな女でも反抗心と貞操観念を粉々に破壊され、彼らの傀儡と化す悪魔のようなその眼光。 間違いなく司馬懿の息子であるという事実が疑いようもない程に、名無しのすぐ隣で妖しい光を放つ司馬師の双眼は、父親から受け継いだ血の濃さを明確に証明している。 曹丕や司馬懿の魔眼の強さを100と例えると、司馬師はおよそ80前後といった具合だろうか。 曹丕達と全くの同レベルであるとまでは言えないものの、ヒト科の雌を支配するには十分すぎる威力を宿す司馬師の妖艶な視線に間近で絡め取られ、名無しの口から『あっ…』、という小さな悲鳴が零れた。 曹丕と司馬懿によって長きに渡り徹底的な調教を受けてきた事もあり、今や名無しはこの眼差し≠浴びせられれば、身も心も逆らえないようになっている。 無視しなきゃ。 即刻目を反らさなきゃ、と思う己の意志に反して、ドクドクと心臓の鼓動が高鳴っていく。 頬を上気させ、じんわりと涙で霞む瞳で司馬師の顔を見上げてしまう。 視線が、外せない。 「ほう」 そんな彼女の変化を抜け目なく感じ取り、司馬師が意外そうな声を出す。 「何故かお前に関しては私の思い通りに動かすことが出来ず、父譲りだと思っていた己の眼に疑問と不甲斐なさを感じていたところだったのだが……そうでもなさそうだな」 「な…、子元…!」 「その反応を見る限り、案外脈ありなのか?」 「…ぁ…、違…っ」 否定しなければ。今すぐに。 司馬師の言葉を認めるなんて、嫌だ。 そう思うのに、震える唇は強い口調で反論する為に必要な力を失い、せめてもの反抗として男から僅かに顔を反らす事しか出来ない。 「……見ないで」 「ん?」 「そんな目で…私を…見ないで。子元…」 「……。」 「お願いだから…」 獲物を見据える時のように容赦の無い男の眼光に、痛いくらいに心臓が締め付けられる。 抗い難い程に強烈な司馬師の眼差しは、もはや凶器だ。 [TOP] ×
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