異次元 【一妻多夫】 「ご一緒してもよろしいでしょうか?」 悪びれた様子もなく、司馬師が笑う。 二の句が継げず、名無しは思わずひくっ、と喉を鳴らして男を見上げた。 傍から見れば、司馬師がこれだけ丁重に礼を尽くした言葉と態度で尋ねているにも関わらず、そんな彼の申し出を嫌です≠ニ断ったとしたら 『まあ!あの司馬師殿があそこまで言って下さっているのに』 『まさか断るだなんて、失礼にも程がある!』 と完全に非難轟々であり、悪者になってしまうのは名無しの方だという事くらい容易に想像できる。 「何やら顔色が優れないようですが、如何されましたか」 「な、な、な、なんでもございませんよ」 「それなら良いのですが。……お隣に座っても?」 「えっ!?ええ…!も、もちろんです、司馬師殿!」 こうなってしまったら、受け入れるしかない。 しどろもどろな口調になりつつも、名無しは精一杯の笑顔を司馬師に向けた。 名無しの返答を受けた司馬師は、それでは失礼して、と一言述べると、優雅な動作で彼女の隣に腰を下ろす。 (うううっ…。しまった、失敗した……!!) 弦義達が席を移動した際、言い換えればあれは名無し自身にとってもこのテーブルから席を移動する大きなチャンスだったはずだ。 あの時に自分も席を立ち、自分が入ることで空席がなくなるテーブルに移動していたとしたら、司馬師とこうして隣同士で着席すると言う多大な緊張感を味わわずに済んだのかもしれないのに。 「……。」 「……。」 沈黙の時間が、二人を包む。 名無しの隣に座ったはいいものの、一向に話しだそうともしない司馬師の態度に、名無しの緊張ゲージはより一段と高まった。 ど、どうしよう。 別にこのまま無言でもいいと言えばいいのだけれど、あまりにもこの状況が長引いてしまうと私の心臓が持たない。 でも、昨日の今日で、あんな事があった後で、一体子元と何を話せばいいというのだろう? 止むを得ず『あの…』と名無しが声をかけた直後、隣の男がようやく口を開く。 「……酔った」 ポツリ、と。 吐息と共に吐き出された司馬師の言葉にびっくりして、名無しがまじまじと男の顔を見る。 何かの聞き間違いではないのか。 「…子元…?」 驚きのあまり、ついいつも通りの呼び方を口にしてしまう。 幸い、周りの喧騒が大きすぎて、自分達の会話は他人に届いていないようだった。 「子元…、大丈夫?」 「何がだ」 「その…、さっき、酔った、って…」 他の男性ならいざ知らず、自分が知るこの司馬師という男性に限ってはそのような事など絶対にないはずだ。 そう思い、信じられない物を見るような目付きで自分を見つめる名無しの視線に気付き、司馬師が鬱陶しそうな顔で近くにあった未使用のおしぼりに手を伸ばす。 「さすがにな。今日はおそらく普段の2倍か3倍の量を飲んでいる」 珍しい事もあるものだ。 確かに名無しの見る限り、司馬師達は同テーブルの人間達からどんどん酒を注がれていた。 席を移動する毎に新しい人間にまた注がれ、それが延々と続く。 人数が多いだけ、量も凄いだろう。 しかし、そうは言っても、普段の司馬師なら明らかに己自身が『酔った』と自覚するまでの量や速度で酒席に臨む事は無いと思うのに。 「そ、そうなんだ。どうする?お水でも持ってきて貰おうか?人を呼んで…」 そう思い、名無しは手を挙げて女官を呼ぼうとしたのだが、周りを見回してみても給仕の人間達が全然近くにいなかった。 時間的に宴もたけなわと言ったところで、料理も含めてあちこちで追加オーダーが発生しているせいだろう。 目に付いた女官達は皆どこかのテーブルで注文を取っていたり酒や食事を運ぶのに忙しく動き回り、名無し達のテーブルまで回って来ない。 「あ。そうだ。子元、私のお水で良ければまだ沢山残っているよ!良かったら────」 ふと、自分がお代わりした水が手元にある事を思い出し、名無しは水が入った自分のグラスを司馬師の前にそっと差し出した。 「……お前の?」 司馬師はそう短く告げたきり、どういう訳か口を閉ざす。 数秒程、司馬師は目の前に出されたグラスを黙って見つめていた。 ……が、やがて何かを思い直したのか、気が変わったのか、長い腕を伸ばしてグラスを掴むと静かに口元へと持っていく。 ゴクリ。 (良かった。子元、飲んでくれた!) 男の喉が鳴り、水を飲み込んだ事実を認め、名無しはホッとしたように微笑む。 (ほんの気休めにしかならないかもしれないけれど…。これで少しでも、子元が楽になってくれるといいんだけど) ……って、あれっ?? 何も考えていなかったけど、全く気付いていなかったけど。 これってひょっとして、子元との……間接キス? (ひえっ……!わ、私ったら、なんて事を────!!) 名無しはここにきてようやく事態を理解して、ボボボボッと音が出るくらいの勢いで赤面した。 ああああ……、もう、恥ずかしいったら!! 全く悪気が無かった事とはいえ、私ったら子元になんて失礼な事をっ。 と、言うよりも。 この場合、悪気が無い方がむしろ性質が悪いよね。 (子元だって、私なんかと間接キスなんて絶対に嫌に決まっているのに) 司馬師程の人間が、気付いていないとは思えない。 本当は不愉快で仕方がない事なのに、給仕の人間が捕まらない為なのか、もしくは周囲の目がある前で言い争う事を良しとせず、我慢に我慢を重ねて飲んでくれているのだろうか。 (本当にごめんなさい。子元、物凄く嫌だよね!?) 冷や汗ダラダラの状態で、赤くなったり青くなったりと忙しく顔色を変化させる名無しの様子など意に介さない素振りで、司馬師はさらに二口、三口と唇をグラスに寄せて水を飲む。 水で濡れた男の赤い唇がいたたまれない程の妖艶さで名無しの視界に映り、名無しの視線が縫い止められる。 「フーッ…」 ぺろり。 大きな嘆息を漏らして舌先で唇を舐め取る男の行為に、名無しの心臓がドキンと跳ねた。 な、なんだろう。 子元って、こんなにカッコよかったっけ!? 「どうかしたか」 名無しの視線に気付いた司馬師が、これ以上はないくらいに色っぽい流し目を名無しに送る。 瞳に影を落とすほど長い睫毛をしばたかせ、じっと自分を見据える司馬師の艶めかしい眼光に耐えきれず、名無しは無意識のうちに首を大きく左右に振っていた。 「何故そんなに大げさな動きをする」 「ええっ!?こ、これは、その」 司馬師の言う通り、普段に比べて彼が本当に酔っているから?……だろうか。 いつ見ても意志の強そうな凛とした彼の眼差しが、大量の飲酒の影響かどことなく物憂げで、焦点もぼんやりと定まっていないように思える。 無論、そうは言っても司馬師の事なので、他の酔っ払い達に比べるとその度合いは遥かに軽い。 目に見える程顔を真っ赤に上気させ、呂律の回らない口調でだらしなく管を巻いたり、同席している美女に対してあからさまに鼻の下を伸ばしたりしている男達とは雲泥の差なのだが、僅かに気怠げなオーラを漂わせている今日の司馬師は、普段の三割増し以上に色っぽく名無しには感じられた。 [TOP] ×
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