異次元 | ナノ


異次元 
【一妻多夫】
 




「おやおや…可哀想に。今にも泣き出しそうな顔をしているじゃないか。お前の酒癖の悪さは分かったから、もうそのくらいで名無し殿を解放してやれよ。伏威」
「…応矯殿…」

しなやかに伸ばされた男の掌が、名無しの頭をよしよしと撫でる。

他人に分かるほど負の感情が顔に出ていた事に恥じらいを覚え、名無しは懸命に笑顔を作ろうと試みた。

「ありがとうございます、応矯殿。でも、私は大丈夫ですから。お気遣いなく」
「……だとさ。感謝しろよ伏威、名無し殿の懐の広さに」

それほど年が変わらぬ友人からぴしゃりと言い含められ、伏威が露骨に不愉快そうな顔で『うるせえよ』と反論する。

子供染みた態度でムスッと顔を歪ませて頬杖をつく伏威の事は完全無視で、応矯は名無しに向き直る。

「優しいなあ、名無し殿。あんな奴、別に一発二発殴ってやっても良かったのに」
「い、いいえ。さすがにそれは…」

場合によっては、もう少しで手が出そうな可能性もあったのだが。

抑えなければ。

平常心、平常心と思いつつ愛想笑いを返す名無しのグラスを、弦義が覗き見た。

「あれ?名無し殿、もうグラスが空でしたね。全然気付かなくて申し訳ありません、今追加しますので…。おーい、こっちにもう一杯!」
「えっ…あの…、弦義殿!大丈夫です、私は別に…」

名無しが遠慮するよりも早く、弦義が給仕の人間を呼んで酒の追加オーダーを入れてしまった。

応矯に呼ばれた給仕の女官がこちらを振り向くと、弦義は何やら意味深な眼差しで彼女に目配せをする。

すると、それに気付いた女官もまた『承知いたしました!』という元気の良い返事とは別に、弦義に向かってこくりと頷く。

実はこの女官、弦義の所有物であった。

城内で飲み会が開かれる際、弦義達はいつもこうして毎回自分達の手の内の者を給仕の人間として紛れさせ、これという獲物を見つけた時、彼女達に合図を送る。

弦義の命を受けた女官は調理場へと戻り、誰にも見られないように気を付けながら、獲物に運ぶ酒の中に特製のドラッグを混ぜるのが彼女達の仕事≠セ。

そういった事情など全く知らない名無しの目には、むしろ弦義の行動はとても好ましいものとして映し出されていた。

(弦義殿って、とっても気配りの出来る方なんだなあ…。私も見習わなくっちゃ!)

司馬師や司馬昭が聞いたら憤慨しそうな感想を抱く名無しの横で、弦義と応矯が酔った伏威を間に挟むようにして立ちあがる。

「それじゃあ名無し殿。ちょっと他の知り合いの席にも顔を出してきますので、僕達はこれで失礼しますね。名無し殿にこれ以上ご迷惑をおかけしないように、こいつも連れて行きますからご心配なく」
「あぁ!?コラ弦義、何だよその言い方。俺は別に────」

弦義の言葉に苛立った伏威が、大きな声を出して反論しようとする。

…が、すかさず横から伸びてきた応矯の手がそれを許さず、応矯の手で塞がれた伏威の口から『もがっ』という情けない声が零れ落ちた。

「この馬鹿は私達が責任を持って監禁しておくから大丈夫。じゃあね名無し殿。大したお詫びにもならないけど、私達がいない間にさっき追加した酒でもゆっくり飲んでね」
「…ぁ…」

振り向く応矯の形良い唇から、きれいな白い歯が覗く。

仕込み≠フ酒を注文した後、獲物の傍から離れるのは彼らの常套手段だった。

ずっと獲物の隣に座り続けるのではなく、あえて離席して一旦他の場所に移動する事で、

自分達は『そういう目』で彼女を見ていた訳ではない
彼女の傍にいたのは、あくまでも一時的なもの
他の人間とも普通に会話をしていた訳だし、よからぬ企みをしていたと思われるなど心外だ。やましい部分など何もない

と言い訳するための材料でしかなかった。

だが、弦義達の台詞を聞いた名無しはそんな彼らの提案を素直に喜び、心からホッとした。

これでようやく問題児である伏威の話し相手役から解放され、一息つく事が出来る。

「それでは名無し殿。僕達がいない間も、どうか楽しんで下さい」
「はいっ。弦義殿、応矯殿…、ありがとうございます!」

申し訳なさと安堵の入り混じった笑みを浮かべ、名無しは男達を見送った。


弦義達が、名無しから離れる。


そのタイミングを、司馬師は見逃さなかった。

「……失礼。あちらに父の同僚の女性がいますので、少し挨拶して参ります」
「まあ…、そうなのですね。分かりましたわ、司馬師殿。でも、また是非こちらに戻ってきて下さいね!」

言い終わる前にすでに立ち上がりかけていた司馬師に、隣の女性が心底残念そうな顔で応答した。

「そうですね、時間がありましたら。……それでは」

司馬師は裾を軽くはたいて服の皺を伸ばすと、薄い笑みと完璧な社交辞令だけを残してその場から立ち去る。

あの司馬懿の息子である、という色眼鏡と補正効果があるのは否めないが、周囲の引き留めを無視してどれだけあっさりと中座しても、

(んまぁ〜、お父様の同僚の方にきちんとご挨拶される為にわざわざ移動されるだなんて、なんて律儀な方でしょう!)
(ほう…さすがは司馬懿殿のご子息。今時珍しい、実に義理堅い男性だ。仕事熱心な上に能力も高く、将来を約束された出世頭に加えてあの美しい容姿。ううむ…、是非とも我が娘の婿に欲しい!!)

と、周囲が勝手に良い風に全てを判断してくれる。

議論の余地などなく、やはり美形は得だ。

(ああ良かった。一時はどうなる事かと思ったけれど、何とか無事に終われそう。弦義殿や応矯殿に感謝しなくっちゃ!)

弦義と応矯がまたこの席に戻ってきてくれるかどうかは分からないが、今度彼らに会ったら改めてお礼の言葉を伝えよう。

張りつめていた緊張感から一気に解放された為なのか、伏威の事に気を取られていた名無しは自分の元へ近づいて来る司馬師の気配を全くキャッチ出来ていなかった。

俯き加減で安堵の吐息を漏らすと、いつの間にか名無しの目の前に立っていた何者かが、名無しの頭上から彼女に語りかけてくる。


「────御機嫌よう。名無し殿」


こっ…、この声は……。


今朝も自分に全く同じ言葉をかけてきた、この男は……!


「こんな所でお会いするとは奇遇ですな。楽しんでいらっしゃるようで何よりです」
「子……!い、いえ、司馬師……殿……っ」

意識するよりも早く、体が勝手に反応し、名無しは顔を引きつらせながらパクパクと口を動かしていた。

いつも上から目線で名前を呼び捨てにしてくるくせに、『殿』付けだけでなく敬語で接してくるという事は、そういう設定≠セという事か。

単に名無しが自分達との関係を周囲に知られたくないと言っていた為に、ここではあまり親しげな様子を見せない方がいいだろうと考えた司馬師なりの配慮だったのだが、名無しは逆に

『きっと自分との事を、子元と子上は知られたくない為だろう』

と受け止めた。

自分がそうなのだから、ましてや司馬師や司馬昭達の方がもっとそう思っているに違いない

という、完全なる思い込みとすれ違いの産物である。


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