異次元 | ナノ


異次元 
【一妻多夫】
 




ああああ…、本当にもうっ!

さっきは給仕の女官が追加のお酒をテーブルに置いた直後に、横からサッと腕を伸ばして思いっきり胸を揉んでいたし。

おかげでお酒を零しそうになった女官が『お戯れはおやめ下さい』『どうかお許しを』と涙目になりながらテーブルの上の空いた食器を片づけようとしているのに、そんな彼女の反応が面白いのか余計に抱き寄せて無理やり胸元に手を突っ込もうとするしっ。

お酒が入っているのを言い訳にしたって、いくらなんでもさすがにやり過ぎだと思う。

この人、女性を一体何だと思っているのっ!?

名無しは即座に女官を呼んで水のお替わりを頼み、さりげなく彼女を男の魔の手から引き離すことに成功した。

だが、全く反省などする事もなく、胸を直接触り損なった女官の代わりとばかりに今度は自分に色欲センサーを向けてきた伏威に対して、普段の名無しには珍しい程にフツフツとした怒りが名無しの体内に湧き上がる。

自分一人に対する無礼であれば、まだ許そう。

自分のいない場所であれば、気付かなかったかもしれない。

けれども、今まさに自分の目の前で他の女性達に対してまで傍若無人な振る舞いをしたり、目下の人間が逆らえないのをいい事に狼藉を働く男性の事を名無しは許せない。

(そういえば昔、李慶殿を思わず引っぱたいてしまった時には曹丕から厳罰処分を言い渡されて、半年間お給料が3分の1になっちゃった事があったなあ)

何の罪もなくか弱い女性達を思いのままに殴りつけ、首を絞めながら強姦するなど非道の限りを尽くしていた李慶という男性に、以前名無しも犯されそうになった事件があった。

李慶本人の口から今まで他の女性達に対してしてきた仕打ちを告げられた名無しは、どうにも我慢がならなくなってつい男の頬を平手打ちしてしまい、しかもその現場をよりによって主君である曹丕に見られていた事で当時は大変な事になってしまったのだが、そんな苦い思い出も今となっては懐かしい。

(……とは言っても)

大勢の人間が一堂に会している宴会場、という状況だ。

この場では何もしない方がいい、というのは自分だって十分分かっている。

でも、それでも。

「おい。少し飲み過ぎだぞ伏威。初対面の名無し殿に対して失礼だろうが」
「ああ?何だよ弦義、カッコつけやがって。お前だって全然人の事が言えない鬼畜野郎の癖に」

やんわりと止めに入った弦義の手を払い除け、伏威が毒づく。

「知っているか?名無し殿。こいつも応矯も綺麗な顔して、陰ではとんでもない事やっているんだぜ。俺とこの二人は親同士の仲がいい昔からの幼馴染でさ、12、13くらいの年のころから、狙いを付けた女を呼び出しては親父の持つ別荘に連れ込んで────」
「伏威!」
「い、いてててっ!弦義てめえ、いきなり何しやがる!!」

伏威が皆まで言い終わらないうちに、弦義が伏威の鼻をつまんで思い切り引っ張った。

「本当に申し訳ありません名無し殿。こいつ、普段はこうではないんですが、酔うと一気に酒癖が悪くなる男でして」
「何だよぉ、その言い方。まるで俺だけが悪者みたいな言い方じゃねーか!」

伏威はいかにも不機嫌そうな渋面を作って弦義の手を自分の鼻から引きはがそうと頑張っていたが、やがて何を思ったのか、空いている手を名無しの方に伸ばして彼女の腕をグッと掴む。

「なあなあ名無し殿、弦義ってひどいだろ。あんたからも幼馴染を苛めるな≠チてこいつにビシッと言ってやってくれよ。助けてくれたら、俺もあんたに十分サービスしてやるからさ」
「あの…、伏威殿。本当に、弦義殿の仰るとおりに少々飲み過ぎなのでは…」

ここまでされても決して責めず、苦笑しながら宥めようとする名無しの健気な返事など完全無視で、伏威が一層名無しに絡む。

「あんた、今は彼氏もいないし、結婚もしていないって言っていたよな。どうせ男日照りで毎日寂しく悶々と過ごしてんだろ?隠してたって丸わかりだぜ。可哀想だから、俺が上半身から下半身までたっぷり余すところなく舐め回してやるよ。今まで経験した事がないくらいに気持ち良くしてやるからさあ。なあ……今晩、いいだろ?」

プツン。

品性の無い台詞と同時にヌルリとした動きで服の上から胸を撫でられて、名無しの頭の中で何かの糸が切れた音がした。

弦義の身なりから推察するに、きっと彼も弦義と一緒でかなり裕福な家の生まれか、相当な権力者の息子ではないかと思われる。

名無しの脳裏に、数年前の李慶の思い出が蘇った。

(だけど……だけどっ!)

いくら名無しが世の一般女性の平均値に比べて忍耐強く、穏やかで、優しい心の持ち主だったとしても、仏の顔にも限度というものがある。

私だって、怒る時には本当に怒るんですからね!!

「伏威殿。私は……」

テーブルの下の見えない部分でグッと拳を握りしめ、伏威に強めの口調で言い返そうとした瞬間、名無しは自分を見つめる何者かの気配に気付く。

ハッとして僅かな眼球の動きだけで視線を彷徨わせると、線を結ぶように直線上を走る視線で自分を見据える人物の正体が判明した。

(……っ!!)

子元。子上。

感情の高ぶりで潤む瞳を精一杯開いた名無しが、びくりと肩を跳ねさせた。

肉食動物の気配を感じた小動物が、余計な動きをして彼らの注意を惹いてはいけないと息を殺して物陰に隠れようとするのと同じように、強迫観念にも似た思いが名無しの体を竦ませる。


──────やめておけ。


まともに相手をするには、そいつは少々面倒臭い相手だ。

お前の言いたい事も分からないではないが、余計な真似はしない方がいい。


そんな風に言われている、気がする。

彼らが心の中で何を考えているのかなんて普段は全然分からず、それが名無しを一層名無しを悩ませる要素の一つであるはずなのに、なぜかこの時だけは、そんな気がした。

彼らと見つめ合っていた時間は、実質ほんの数秒くらいだっただろうか。

握っていた拳を徐々に解き、言葉を途中で飲み込んだ名無しの姿を遠目から認めると、司馬師と司馬昭は何事もなかったかの如くあっさりと名無しから視線を外す。

相手の身に何か起こっていないか、離れている位置からでも常に気を配っていてくれる。

相手が何か間違った事をしていたり、その行動によって余分なトラブルを巻き起こす羽目になりそうな場合は、見て見ぬふりをせずにきちんと止めてくれる。


なんということでしょう。


これではまるで、彼氏である。


完全に、彼氏の風格……!!


(ち、違う、違う〜っ!!)

そんなイメージを抱いた自分の脳内が信じられず、名無しはパニック状態に陥った。

どうせ、たまたま偶然目が合ったというだけのオチだろう。

司馬師や司馬昭のような男性達が、自分に対してそのような気遣いをする必要などは無いはずだ。

たとえこれが己の心を守るための現実逃避の一部だとしても、彼らに好きなようにされてしまった上に、そんな勘違いまでしてしまうだなんて、いくら何でも愚かすぎる。


────あまりにも、惨めだ。


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