異次元 | ナノ


異次元 
【一妻多夫】
 




「なっ…、子上っ!?」

な、なんで!?どうしてっ!?

一体、いつから見られていたのだろう。

込み上げる焦りと羞恥で口を魚のようにパクパクと動かす名無しに対し、名前を呼ばれた司馬昭は小さな溜息を一つ零すと、呆れ半分といった視線を彼女に注ぐ。

「キスマークなんて一日や二日でキレイさっぱり消えるもんじゃないんだし、そんな方法があるなら俺の方が教えて欲しいくらいだぜ。いくら悩んだところで無駄なんですけど」

太い眉に、意志の強そうな鋭い双眼、肉厚だが男らしい形を備えた唇、鍛えられた長身の肉体。

ワイルド系の外跳ねセミロングヘアも、男性的な要素をバランスよく調和させた彼の容姿に良く似合う。

恵まれた体躯と父親譲りの美貌に自信満々なのが丸分かりの態度は一歩間違えば反感を抱かれる元だが、きっぱりとした物言いと飄々とした立ち振る舞いの影響なのか、それほど嫌味がなく感じられるのが司馬昭の凄い所。

「それでも一応お前に気を遣って、隠そうと思えば隠せる場所を選んだつもりなんですけどねえ……。顔のあちこちだのどうあがいても絶対に丸見えな場所に付けた訳でも無し、割り切って支度しないと出勤時間に間に合わないぜ」
「わ、割り切ってって…そもそも誰のせいでこんな風になったと思っているの!?誰のせいでこんなに目立つ跡がついたって…!」
「はいはい、そうですねえー、おそらく名無しの中では俺と兄上のせいです。でも俺達からすれば、名無しがいつまで経っても言う事を聞かないからめんどくせ、仕方なくって感じです。俺と兄上の視点から見れば、十割お前が悪い」
「な、な、な…っ」
「っていうか、せっかく苦労して付けた物を勝手に消そうとされると俺としても男心が若干傷つくんですけど。自分だけ付けられるのが不公平だって言うのなら、名無しの方から積極的に俺の首筋や下半身に付けてくれてもいいんですけどねえ?」

そう言って司馬昭は大きな手でグイッと己の襟を掴んで首元を露出させ、ほらほら、どーぞ?と言わんばかりに名無しに見せつけた。

目上相手の場合ではなく、彼が名無しに対してわざと語尾に『です』『ます』口調を遣って慇懃無礼な話し方をしてくる時は、大抵皮肉を込めた意味がある。

そんな事より、いつの間に部屋に入っていたのか。

そう言いたげに男を凝視する名無しに対し、司馬昭は面倒臭そうな素振りで耳の後ろを掻く。

「言っておくけど、普通に何度もノックしたからな。全然反応がなかったから、心配で奥まで見に来たって訳」

……全く気付かなかった。

昨夜襲われたばかりの相手にやすやすと侵入を許すという、あまりにも注意力散漫な状態の己自身に愕然とする。

我ながら、なんて情けない。

それはそれとして、この胸に込み上げる違和感の方が気にかかる。

司馬昭の放った台詞の中に、何やら不可解なキーワードが含まれていたような気がするのだが。

「心配って、どうして?」
「いやいや……だってそれは、昨日の夜」

名無しの問いに司馬昭が答えようとした矢先、ガチャリ、という音とともに扉が開く。

「御機嫌よう。体の具合は───」
「……!し、子元っ……!?」

意外すぎる人物の訪問を認め、名無しは振り返った姿勢のままで硬直する。

目の前にいるのは、司馬師だった。

彼が着用する白と青を基調にした衣装には皺一つなく、いつも通りの清潔感と高級感が漂っている。

顔の輪郭に沿う形でサラサラと流れる艶やかな黒髪は今日も綺麗に整っていて、まるで美容師が手間暇をかけてセットした直後のように隙がない。

急いで朝風呂に入り、短時間で仕上げた為か、櫛で丁寧に梳いても部分的な毛先の癖や跳ねが気になる名無しの苦労など完全無視。

『庶民の悩みなど自分にとっては全くの無関係』

とでも言うように、服装といい髪型といい、僅かな乱れも見受けられない司馬師の姿は、いつ見ても生まれついての王子様のように煌めいている。

「ふん…昭も来ていたのか。普段は昼近くになるまで滅多に起きて来ないくせに、今朝は随分早起きだな」
「またまたあ。俺だっていつも寝過ごしている訳じゃないですよ」
「どうだかな」
「それにしても兄上、我が兄ながらいつ見ても完璧な身のこなしですよねえ。惚れ惚れしますー。夜勤明けの日でも兄上がよれたシャツを着ているのとか、寝癖がついているのを俺は一度も見た事がないですもん。兄上ったら、できすぎですって」
「そんな恰好で仕事に臨む訳がないだろう。お前だって一社会人として、何だかんだで服装と髪型くらいは気を遣っているはずだと思っているが」
「ははっ。俺は元々毛先が跳ねている髪型なのが幸いして、多少の寝癖ならまるで元からそうだったかのように見えるんで滅茶苦茶朝が楽ですよ。いっそ兄上もこういう髪型にしません?」
「断る」

相変わらず仲が良いのか悪いのか分からない兄弟トークを耳にしつつ、名無しの脳内は先程から疑問符で一杯だった。

司馬師や司馬昭の言動から察するに、何か仕事上の用事があって自分の部屋を訪れたとは思えない。

以前のように親しくしていた間柄というならいざ知らず、それ以外で朝から自分の元を訪ねてくる理由など何も無いはずだ。

事実、最初に名無しを抱いた時には、翌日以降仕事上の理由を除いて彼らの方から名無しに対して積極的にコンタクトを取ってくる事など一切無かった。

ましてや、今回は二度目である。

多少は物珍しさの残る一度目の直後というならまだしも、彼らのような男性達にとってみれば、同じ女を二度も抱いた後など飽き飽きしたもいいところ。

司馬昭の口癖を借りるならば、それこそめんどくせ、な存在でしかない。

自分など、すでに興味ゼロの存在に成り下がっているに違いないと思うのに……。

「子元、子上。二人とも、こんな時間から一体私に何の用で……、────っ!?」

グラリ。

疑問を口にししつつ彼らのいる方へ名無しが一歩足を踏み出した途端、彼女の下半身から一気に力が抜けて、ガクン、と膝から崩れ落ちそうになった。

どうやら自分で思っていた以上に、体力を消耗していたようだ。

もう少しで転倒しそうになった瞬間、すかさず伸びてきた司馬師の長い腕が名無しの右腕を掴み取る。

「あ、ありがとう。子元」

昨夜の事を引きずりつつも、憎いはずの男の手に救われて、名無しは複雑な感情を抱きながら素直な感謝の言葉を口にした。

「────どういたしまして」

涼しげな目付きで名無しをじっと見下ろす司馬師の声は、司馬家の男子に相応しい落ち着きを兼ね備えており、それでいて品がある。

司馬懿の息子として幼い頃より様々な教育を施されてきたのだと名無しの目にも良く分かる程、彼の所作にはあらゆる箇所に育ちの良さが滲み出ている。

「どうした?具合が悪いようだが」

一見彼女の体調を気遣う台詞のように思えるが、昨日の今日という事情を踏まえた上で吐かれるにしては白々しすぎる問いではないか。

誰のせいで、誰のために、誰がした事で、こんな風になっていると思っているのっ!?

必死で抑えていた感情が爆発しそうになり、今にも涙が溢れそうな心境で反論しようと唇を開きかけた途端、『ふふっ』という短い笑い声が名無しの頭上から降ってくる。


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