異次元 | ナノ


異次元 
【魂喰いvol.2】
 




「……随分派手にやったものだな。これでは万が一名無しが子を宿しても、どちらの物か判断できん」
「そりゃそうですけど…。でも、父親がどちらかなんてそんなに重要な事ですか?俺としては、例えどんな理由であろうと名無しが俺や兄上の元から逃げ出せないように、名無しの身も心もがんじがらめに縛り付けられればいい訳で」

美しい悪魔の兄弟達が、世間話のような軽い口調で『何か』を言っているような気がする。

普段は心地良く感じられる二人の声だが、凶悪な人喰い鬼の会話を盗み聞きしてしまったかの如く、名無しの体は固まって動かない。

「まあな…。確かにお前の言う通りだ。名無しの子の父親が私であろうと昭であろうと、どちらにせよ司馬一族の血筋には変わりはないのだから」

直系の血を引く子供であるのなら、跡継ぎの資質としては何の問題もない。

ククッと冷淡に笑って司馬昭を見返す司馬師の声が、まるでどこか遠くの場所から聞こえてくるかのような現実感のなさで名無しの鼓膜を通り過ぎていく。


(この人達は……何を言っているのだろう)


激しい情事に体力を奪い尽くされ、グッタリと横たわる名無しは、意識が朦朧としかかった頭でぼんやりと思考を巡らせていた。


(私は……ここで、何をしているのだろう)


服を着ないと……。


服を、着る……?どうして?何のために……?


どうせまた、すぐに脱がされるのに。


……何の話?


回らない頭を振り絞って必死に考えようとするほどに、司馬師達に身も心も蹂躙された名無しは正常な思考を失っていく。

「……何か言いたげな様子だな。どうした?そんな風に虚ろな顔をして」

名無しの項を愛撫するようになぞりながら、ねっとりと嬲る口調で司馬師が問う。

「か弱い女を、力ずくで無理やり襲うなんて間違っている。こんな事をする子元や子上は酷すぎる。こんな目に遭わされる自分は心底『不幸』で、『可哀想』だ…といったところか?」
「……。」

いつもサラサラと流れる艶やかな黒髪を、情事の名残で少し乱した司馬師は、弱り切った様子の名無しを含み笑いを浮かべながら見下ろす。


「─────『幸福』というものは、自分よりも不幸だと思っている℃メ達を目にした時に込み上げる快感の事だ」


世の中には食糧に困っている人達もいるというのに、こんなに美味しい物を食べられるなんて本当に幸せだなあ

仕事を失って寝る場所もない人達に比べれば、今の仕事がある事を有り難いと思わなければ

世間では恋人や夫から日常的に暴力を受けていたり、不倫されていたり、仕事も家事も育児も全部丸投げされて大変な思いをしている女性達も沢山いるのに……。私は可愛い子供も授かって、家事も育児も協力的な夫の元で、仕事も辞めて専業主婦に専念する事が出来る。感謝しなくちゃ

高所得の人間は低所得者を。

頭がいい人間は馬鹿な人間を。

美男美女は並やそれ以下の顔立ちの人間を。

持ち家がある人間は賃貸の人間を。

恋人がいる人間はいない人間を。

既婚者は独身者を。

子持ちは子無しを。


己が持っている物を所持していない人間と比較し、自分は恵まれていると思う事で、自尊心と優越感が満たされる。


「お前の長所はひとえにその善良さ≠ニいうもの。善良な部類に入る人間ほど、常日頃から多くを求めず、欲を知らず、自己犠牲の精神に充ち溢れている。……そうだろう?」

突然降らされた男の言葉にどう答えればいいのか思いつかず、名無しは恐る恐るといった素振りで震えながら司馬師を見上げた。

「善良で慈悲深く、お綺麗な心の持ち主の名無し様の事だ。幸福を感じたい≠ネどと、よもやそのような下劣で浅ましい感情を抱く側に回るなど、自分がなりたいとは露程にも思うまい?」
「……!」

相変わらずの薄い笑みが司馬師の口元にはこびりついていたが、正面から名無しを見据える彼の両目は決して笑っていない。

凄味のある、例えようもないくらいに冷淡な瞳。

一見穏やかな口調に見せながら、どんな抵抗も反論も決して許さないといった修羅の眼光に、名無しは背筋にゾクリと寒気が走るのを感じていた。

「……だが、幸福の基準など人それぞれ。地位や金、恋人、結婚、子ども等に関して、世の中には心底『いらない』と思う人間もいる。むしろそんなモノは無い方がよっぽどいい、何かに縛られて自由を失うよりも、身軽な方が余程幸福だとな」

それにしか価値観を見い出せない人間からすれば、

『本気でそんな風に思う人間がいるなんて信じられない。誰だって本音は欲しいはずだ』
『どうせいらない≠じゃなくて出来ない≠フ間違いだろう。そんなものは単なる強がりや見栄を張っているだけだ!』

と思うだろうが。

しかし、そいつらがどれだけ頭ごなしに否定し続けようと、現実問題、

『本当に必要無い』

と思っている人間が実際に存在するのは、紛れもない事実。

……まあ、要するに、人の価値観なんて千差万別という事だ、と司馬師は言った。

「だから名無し。お前がどうしても嫌だと泣くのなら、今すぐに救われる方法もある」
「!?」
「とは言っても、お前次第なのだがな」
「……それ、って……?」

名無しが、ゴクリと唾を飲み込みながら気丈にも聞き返す。

「単純な事だ。今話したように、価値観そのものを変えればいい。お前が今の状況に幸福を感じるようになれば、全ての悩みが解決する」
「……えっ」

ひくり、と喉を鳴らし、名無しの全身が硬直する。

「私や昭に求められ、愛でられる事を至上の幸福に思うが良い。それだけの話だ」

司馬師は恐怖に顔を歪めた名無しを抱き寄せると、名無しの顎を掴んで上向かせ、獲物の味を確かめるような動作で彼女の唇に喰らいつく。

「うっ…、んんっ…!」

決して男の言うなりにはなるまいと、名無しは司馬師の舌と唇から必死に逃れようと首を振る。

すると、そんな兄の台詞が気に入ったのか、司馬昭は『あはははっ…!』と急に笑い声を上げた。

「全てが都合よく解決する魔法の言葉じゃないですか。考えてみれば俺や兄上にこんな風に可愛がられる事なんて、滅多にない待遇ですもんねえ」
「子……、上……。…そ……そ、んな……っ」
「いやはや、そいつはめでたい。良かったなあ名無し、世界一幸せな花嫁さんで。俺達の寵愛を一身に受けるという誰もが羨むような幸運と、世間の女共から押し寄せる嫉妬や憎悪で刺し殺されそうな、ヒリヒリする日常生活を送る権利がお前に贈呈される訳だ。おめでとう!」

はははっ、と実に明るく笑いながら語る司馬昭の台詞がますます不吉で、名無しは再びゾゾッと背筋を凍らせた。


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