異次元 | ナノ


異次元 
【魂喰いvol.2】
 




「書類は机の上に置いておいたから、後で見ておいてね。それじゃ子上、お邪魔しました。もう行くね」
「ああ。悪い。助かっ…、う…、ゲホッ」

手短に用件を伝えて名無しが司馬昭の部屋から引き上げようとした直後、彼が咳き込む。

「どうしたの?」
「いや、なんでもない。なんかさ、今日は朝からちょっと調子が悪くて。ゴホッ…」

何でもないと言いつつも、司馬昭は再度苦しげな咳を漏らした。

「…!子上…、大丈夫!?」

さすがにこの状況でさっさと退室する訳にはいかず、一旦司馬昭から離れようとした名無しは男の元に駆け寄る。

「いつからこんな風になっちゃったの?熱は?」
「熱はない。でも、喉がすっげー乾いて、カラカラで…。水分は十分取ってるつもりなんだけど」

心配そうな声で尋ねられ、司馬昭は怠い体で頷く。

「そうなの…。食事は?ちゃんとご飯は食べられる?」
「それが…最近あんまり食欲が出ない」
「えっ。子上が!?」

司馬昭の返答に、名無しは驚いて聞き返す。

「こういう仕事してるから体が資本だってのは分かってるし、俺だってなるべく食べようって気持ちはあるんだけど。口の中に無理矢理詰め込んでみても、腹に入っていかなくて」
「そう…。じゃあ、晩ご飯も?」
「食ってない。飯食う前に、いつの間にかここで寝てたから」
「お昼は…?」
「昼にカツ丼。半分以上残しちゃったけど」

掠れた声で漏らされた呟きに、名無しは大きく目を見張った。

名無しの中で、司馬昭と言えば許チョとタメが張れるほどの大食漢であり、一体この体のどこに収まっているのか、と思えるくらいに日頃からよく食べる男性だった。

そんな彼が、ほとんど食欲がなくてこんな所でご飯も食べずに寝てしまったというのだ。

ただ事ではない。

「……本当に大丈夫?子上。明後日の会議、出られそう?」

その瞬間、名無しは司馬昭に対する葛藤やわだかまりを全て忘れ、彼女の意識は完全に仕事モードに入っていた。

彼がもし出られなさそうと言うのであれば、早めに代役を立てなくては。

それか、代わりに自分があの書類に目を通した上で出来る限りの質疑応答をこなして……などと色々な事を名無しが考えていると、司馬昭は眠そうに目を擦りながら名無しに告げる。

「名無し……なんか作って」
「えっ。い、今から?」
「今からじゃなくていい。明日でもいいけど、名無しがなんか作ってくれたら食べる」
「私が?」
「だって名無し、前は色々作ってくれたじゃん。最近全然作ってくれないけどさ」

責めるような口ぶりで、司馬昭が言う。


……そんな事を言われても……。


確かに今までは、名無しは司馬昭に請われて彼の為に食事やデザートを作った事が何度もあった。

しかし、それはあくまでも元々仲が良かった時の話。

『あのような事』があってからは、作らなくなっていた。当たり前だろう。

と、言うよりも、司馬昭の方だっていらないだろうと思っていたのだ。

ただの体目当ての女に気持ちの入った手料理を振る舞われた所で、鬱陶しく感じるだけだと思うのに……。

「じゃあ、明日で良ければ…。子上は何が食べたいの?」
「カツ丼……」
「……カツ丼……?おかゆとかじゃなくて、食欲がない時にそんないきなり重い物でいいの?」
「いいんだよ」

慌てて聞き返す名無しに対し、司馬昭が穏やかに目を細める。

だが、どうしても名無しの中には疑問が残る。

「でも…、カツ丼なら食堂のメニューにあるじゃない?」

何も名無しが作らなくても、食堂に行けばいくらでも司馬昭が好きな時に好きなだけ食べられるはずだ。

戸惑いながらそう説明する名無しの言葉を、司馬昭の声が遮る。

「いやだ。名無しが作ったやつじゃないと」
「…え…」
「食堂のじゃなくて、名無しが作ったやつがいい」
「…子上…」
「じゃなきゃ、俺、食べない」
「……。」
「俺がもし栄養失調とかで倒れたら、そういうの全部名無しのせいだぜ」
「ええっ!?」

司馬昭の中で、何故そういう理屈になるのかさっぱり理解が出来ない。

そっ…、そんな無茶苦茶な!!


「────俺の為に作ってよ」


戸惑う名無しに、司馬昭は真っ直ぐな視線を向ける。

何度も繰り返される懇願に、名無しの心臓はドキリと軋んだ。

男の真意はよく分からないが、それで少しでも司馬昭の体調が良くなってくれるのであれば。

そこまで言うなら……。

ふーっ、と、名無しの唇から深い溜息が洩れる。

「……分かりました。何でも作ります。子上の為に」
「……名無し……」

OKの返事をする名無しを、司馬昭が熱のこもった瞳でうっとりと見つめている。

(……えっ?)

なんだろう。この眼差し。

何とも言えない違和感を覚え、名無しは再びドキッとした。

名前を呼ぶ司馬昭の声は熱を帯びたような掠れがあって、自分を見上げる彼の瞳もどこか熱っぽく、潤んでいるように見える。

司馬昭はああ言ったが、やっぱり熱でもあるのだろうか。

「子上。ちょっとごめんね」
「…あ…」

名無しは片手を自分のおでこに当てながら、もう片方の手を司馬昭の顔に伸ばし、そっと彼の額に添えた。

体感温度なので大体の熱さしか読み取れないが、どうやら熱はなさそうだ。

しかし、無理は良くない。

「確かに熱はなさそうだけど…。でも、調子が悪いなら安静にしないとね」
「……ああ」
「もしひどくなるようなら言ってね。すぐにお医者様を呼ぶから。明後日の会議も、辛そうなら代役を考えるよ」
「…ありがと…」

優しい声音で諭され、司馬昭は甘えるような目付きで名無しの顔を見返す。

司馬昭の胸が、ズキズキと痛む。


─────我慢の限界だった。


「名無し」
「はい」
「俺さ、お前に言いたい事がある」

気が付けば、考えるより先に、司馬昭の口が言葉を発していた。

「丁度二ヶ月くらい前だっけ。兄上と一緒に、お前を強引に襲ったの」
「!!」

思い出したくなかった過去の話題に触れられて、名無しの顔が瞬時に引きつる。

それだけでも十分嫌な思い出の発言だったのに、司馬昭が語り出したのは、名無しにとって一層不愉快にしか思えない事実だった。


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