異次元 | ナノ


異次元 
【魂喰いvol.2】
 




普通の女性なら悔しさや怒り、哀しみを覚える所だろうが、名無しはそれならそれでいいと思った。

むしろ、そちらの方がいいと思った、という方が正しい言い方なのかもしれない。

それ以降も何度も彼らと肌を重ねる事になり、自分の体に沢山の痕跡が残り、曹丕や司馬懿に気付かれてしまう方がよっぽど恐ろしいと思うから。

そんな風に思う部分がありつつも、やはり司馬師や司馬昭と同じ空間にいると息が詰まりそうな気がするし、彼らの顔を見るのは気が重い。

それ故に、こんな夜更けに、司馬昭に書類を手渡しながら二人で話をしなければいけないなんて…と名無しは思ったが、それはお互い様なのかもしれないと思い直す。

ただの体目当ての行為だった以上、今更名無しと顔を合わせるなんて面倒だと感じるのは、きっと彼らも同じに違いない。

あれこれと考えを巡らせている内に、名無しは司馬昭の部屋の前に辿り着いた。

(書類だけ手渡して、必要な事を伝えたらあまり長居をせずに早目に帰ろう)

名無しは深呼吸をすると、扉を数回ノックする。

コンコン。

だが、部屋の中からは何の反応も返って来ない。

(……?聞こえなかったのかな?)

音が小さかったのかと思い、再度ノックしてみるが、やはり応答がない。

夜の時間帯なのでひょっとして寝ているのかとも思ったが、根っからの夜族であり、昼間よりも夜の方が活発に動き回っている司馬昭にしては珍しい。

どちらかと言えば、仕事が終わった後城下町に飲みに出掛けているとか、花街に繰り出して女性達と遊んでいるという可能性の方が十分考えられる。

誰もいないのだろうか。

不思議に思って試しに扉に手を伸ばすと、鍵はかかっていないらしく、開いている。

(どうしよう)

名無しは一瞬迷ったが、よく考えてみれば、司馬昭不在であればある意味有り難い事のように思えた。

これなら直接彼と顔を合わせる事もなく、用件を済ませる事も可能である。

「…失礼します…」

一応、一言声を掛けてから、名無しは静かに扉を開く。

ガチャリ。

名無しが足を踏み入れてみると、室内はシンと静まり返っていた。

書類だけ置いて帰ろう。

そう思い、名無しが執務机の方に向かって歩いて行くと、その手前に置かれていた来客用のソファーの上で誰かが寝転がっているのが目に留まった。

その正体に気付いた瞬間、名無しの心臓がドキンッと跳ね上がる。


司馬昭だ。


(…子上…!!)


不在にしているかと思ったのに。


ドクン。ドクン。ドクン。


心の準備が全く出来ていなかった為、名無しの胸の鼓動は驚きと緊張で一気に加速した。

中にいるとは知らずに勝手に室内に入ってきてしまい、どう声をかければいいのかと戸惑ったが、当の司馬昭といえば全くの無反応だった。

名無しがすぐ近くまで来ているのに、こちらを振り向く素振りさえ見せない。

ひょっとして、本当に寝ている……?

恐る恐るといった動作で名無しが男の方に近づいてみると、部屋の静けさの中に混じって微かな寝息の音が聞こえてきた。

名無しが思った通り、どうやら司馬昭はソファーの上で寝ていたようだ。

(こんな所でこんな格好のままで眠ったら、風邪をひいてしまうのに)

名無しはふと司馬昭の周囲を見回した。

横たわる司馬昭は普段着を纏ったままで、彼の上着は脱ぎっぱなしのままソファーのすぐ下に放置されており、室内履きもその付近で脱ぎ散らかした状態のままになっている。

脱いだ衣服を片付け、寝間着に着替える事すら億劫に感じるくらい、よほど疲れているのだろう。

(……。)

複雑な思いが、名無しの中で交錯する。

自分に対する司馬昭の行為には、正直物申したい事がある。

あんな事をされてしまったら、とても今までと同じような態度で司馬昭に接する事は出来やしない。

今の今まで、名無しは確かにそう思っていた。

……だが。

今までずっと親しくしていた時の記憶が残っているだけに、こうして寝室にも行かず、来客用ソファーの上で死んだように眠っている司馬昭の姿を見ていると、つい彼の具合が心配になってしまう。


あんな事になるまでは。


昔の子上は─────優しかった。


(子上なんてもう知らない)


そう思う気持ちがありつつも、このままの状態では放っておけない。何となく。

名無しは持参した書類を司馬昭の執務机の上に置くと、改めて周囲を見回した。

すると、椅子の背もたれにかけられている膝掛らしき布地が目に留まった。

表面を撫でるとふんわりと柔らかい感触で、試しに広げてみたらそれなりの大きさがある。

(……。)

名無しはそれを手に取ると、司馬昭が眠っているソファーへと向かう。

そして彼を起こさないように、極力物音を立てないように気を配りながら、広げた布地をそっと男の体にかけてやった。

「…う」

司馬昭の唇から、僅かな声が漏れる。

自分の体に何かが触れた感触に、意識を呼び起こされたのだろう。

その直後、何かに弾かれたようにして、司馬昭が勢いよくガバッと跳ね起きる。

「…あれっ。名無し…!?」

自分の傍にいた人物の正体に、司馬昭は心底驚いたようだった。

その後、自分の体にかけられた布地と名無しの姿を交互に見つめ返す。

「……えっと。これ、お前が……?」

ようやく状況が飲み込めてきたのか、バツの悪そうな顔で司馬昭が問う。

(ううっ…、しまった…!)

余計な事をして、司馬昭を起こしてしまった。

「そ、その」

今更ながらに反省しつつ、名無しは申し訳なさそうな顔をする。

「こんな所で寝ていたら風邪をひいちゃうんじゃないかと思って…。せっかく寝ていたのに、起こしちゃってごめんね」
「いや、別に…。てか、今何時?」
「大体夜の10時くらいかな。私もこんな時間に子上の部屋を訪ねるのは迷惑かなと思ったんだけど、会議で使う資料を持ってきたの」
「……会議の?」
「もう明後日でしょう?事前の準備もあるだろうし、少しでも早めに子上に届けたくて」
「……ありがと……」

素直に礼を言う司馬昭の声には、未だ眠りを誘うような気配がある。

はだけた胸元から覗く男の筋肉を、部屋の灯りが照らし出す。

女性である自分の体には無縁な、男性的な逞しさに動揺を隠せず、名無しは司馬昭から視線を反らした。


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