異次元 【魂喰いvol.2】 「どの道、子上もそろそろいい年だろう。司馬家の血を残すようにとうるさく言われ始める時期だ。適当な女に一人か二人くらい産ませておけば周囲への目くらましにも使える。妻も一生にたった一人しか娶れない訳でもなし、その後一切女遊びを禁じられてしまうという訳でもない。妻の妊娠中は男にとって一番羽が伸ばせる時期だし、絶好の浮気チャンスだ。他に好きな女が出来たらその時点で古い女をさっさと捨てて離婚するか、その都度愛人を増やせばいい」 ─────そもそも、子供を産ませた所で、必ずしも責任を取って妻にしてやらなければならないという訳でもないんだしな。 そう辛辣な言葉を吐き、賈充は長い足組み上げると、椅子の背もたれに上体を預けた。 「その女の家柄はどうなのだ。容姿は、知性は。母親として適性のある人間なのか。それとも、卑しい身分の出身とか、明らかにろくな遺伝子も残さないであろう馬鹿女とか、醜女か。子を産ませるのに何か都合の悪い事が?」 淡々と振られる賈充の問いに、司馬昭が苦り切った表情で眉を寄せる。 「そういう訳じゃないが…。嫁だ愛人だとかって話はとりあえず置いといて、あいつは多分そういうのを喜ぶような女じゃねえよ。他の女と違って、婚前妊娠とか全く狙ってないだろうし。普段の仕事ぶりを見るにしても、結構真面目な所もある女だし」 まるで話にならない、と言わんばかりの口ぶりで、司馬昭が憮然と付け加える。 正直な話、司馬師や司馬昭の子供を身籠もりたい!と思っている女は多い。 もし彼らの子を成す事が出来れば、正妻や、それが駄目でも愛人になれるかもしれない。 ましてや、男児を出産する事が出来れば、運が良ければ自らの子供が司馬家の跡取りとして選ばれる可能性もあるのだから。 地位が高く、権力もあり、その上若くイケメンな男性の世継ぎを生み、司馬一族の仲間入りを果たせる喜び。 その幸運のシンデレラ・ストーリーを夢見て司馬兄弟に接近してくる女性など、今までにも腐るほど存在していた。 しかし名無しにその手の巻き餌は通じない。 何故なら彼女の場合、そんな事などはなから狙っていない。 「真面目な所のある女だというなら、余計に好都合ではないか」 唇を歪ませて反論する司馬昭へ、賈充は再び低い笑い声を漏らす。 「妊娠しても慰謝料だけ要求し、さっさと堕ろしてケロッとしている女と違い、それこそ『真面目に』考えてくれそうだ。こうなってしまった以上は自分も責任を取るしかない。子供の将来を考えなくては。今の男ときっぱり別れて、子上と一緒になるしかない……、とかな」 賈充は口元に笑みを貼り付けたまま、あっけらかんと言い捨てた。 「賈充……、お前、ほんと容赦ないのな……」 大げさではない渋面を作り、しみじみと司馬昭が呟く。 自分の部下であり長年の付き合いもある幼馴染みではあるが、相変わらず恐ろしい男だ。 声を落とした弟の顔を、司馬師がちらりと見遣る。 「だが、いい方法かもしれないぞ。案外」 「兄上…!?」 「ただ一点、相手の女を身動きできないようにするという目的に絞るなら。……仮定の話だがな」 空になったスープのカップを置きながら、司馬師が感情の宿らない声音で語る。 司馬昭はそんな兄を見て何か言いたげな顔付きをしていたが、賈充だけは満足そうな笑みを浮かべてもう一人の主である司馬師の顔を見つめていた。 このままでは良くない事なんて、自分自身が一番良く分かっている。 ストレスと空腹が積もりすぎて、正常な判断を下す事すら困難になってくる。 まともに考える≠ニいう行為そのものが、段々面倒になってくるのだ。 ……まとも? そもそも、まともな考え方というのが一体どういうものだったのか。 長期間の空腹に苛まれ、それすらもよく分からなくなってきた。 腹が減る。 喉が渇いて死にそうだ。 ─────早く餌を取らなくては。 (まさかこんなに遅い時間になっちゃうなんて) 夜の闇の中、魏城の長い廊下を早足で歩きながら、名無しは心底焦っていた。 名無しの腕には、司馬昭に渡さなければならない分厚い書類が抱えられている。 本来ならもっと早い時間に彼の元へ持って行きたかったのだが、突発的な残業をこなさなければならない羽目になり、当初の予定よりも大分遅い時間になってしまったのだ。 (なるべく遅い時間に子元や子上と二人っきりにならないよう、気を付けていたはずなのに…) 後悔の念が込み上げ、名無しは唇を複雑な形に引き結ぶ。 『あの事件』以降、名無しは彼らに接近する事を極力避けていた。 本来ならばもう顔も見たくない、と思えるような出来事だったが、同じ軍に所属する武将同士という関係上、そういう訳にもいかない。 それに何より、名無しが本当の意味で恐れているのはこの件があの人たち>氛氛氛氛氈Aもとい、今や彼女の主人として君臨している曹丕や司馬懿に知られてしまう事だった。 元々司馬師や司馬昭は司馬懿の息子という事もあり、名無しと彼らは以前から親しい間柄にあり、三人で一緒にご飯を食べたり遠乗りに出掛けたりする仲だった。 そんな彼らに対して急に疎遠な態度を取ってしまったら、曹丕達でなくても周りはきっと不審に思うだろう。 そう思い、周囲に怪しまれない程度に、仕事上必要な時など最低限の接触を保っていた名無しだが、心のどこかで『またあのような事をされてしまったらどうしよう』という怯えがあった。 あの時の司馬師や司馬昭の様子では、また今後も同じような事があるような口ぶりだったから。 しかし、予想に反して彼らは二度と名無しに迫ってこなかった。 廊下で会っても隣同士の席になっても、名無しが彼らにするのと同じように全く無視をするというような事はなかったが、それ以上の事もなかった。 まるであの夜の事など、最初から何もなかったとでも言うように。 (……そうだと思った) その反応を見て、名無しは思った。 司馬師や司馬昭にとって、所詮は遊びだったのだ。名無しを犯す事など。 彼らにいいように弄ばれ、飽きた途端に捨てられていった多くの女性達と同様に、自分の事もただの一夜限りの関係であり、どのようなものか一度試してみたかった。ただそれだけの事だったのだ。 ヤリ逃げという言葉があるが、一度やったが最後、一切求められる事のなくなったこの現実が、自分に対する彼らの気持ちを如実に表しているではないか。 [TOP] ×
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