異次元 【真偽矛盾】 「クク……名無しとやら。徳川の将でありながら、実に惨めで、実に滑稽。笑いが止まらぬ……」 込み上げる笑いを堪えるようにして大きな手で口元を押さえながら、風魔の頭領はもう一度優しく繰り返す。 台詞の内容だけみれば完全に馬鹿にしきっているように感じるが、可愛い子犬≠ニ告げる小太郎の発言は文字通り小さなペットを愛でる時にも似た楽しそうな響きを孕んでいた。 「戯れ言は無用…、と告げたはず」 感情の読み取れない無機質な眼光で、半蔵が小太郎を射る。 「そのような女、徳川の将にあらず」 ひいては、名無しですらない。 言外に滲ませながら、半蔵は低い声で断じた。 この日、半蔵が主から与えられた任務というのは、彼と同じく家康に仕える女武将・名無しという女性を北条の元から救い出すというものだった。 先日の戦で北条軍と徳川軍が激突した際、徳川軍はジリジリと追い詰められていた。 氏康の放った刺客・風魔小太郎が率いる風魔忍軍が仕掛けた奇襲と陽動作戦が見事成功し、周囲を敵の軍勢に囲まれていたのだ。 「ぬう…。やりよるわ相模の獅子。そして、風魔の忍びめ…!」 自分の首を獲ろうと北条の兵が押し寄せてきている事実に、家康は撤退を余儀なくされていた。 徳川家の武士たる者、戦場での死など恐れぬ。 だが家康はただの武士ではなく一国一城の主であり、その身には他の三河武士達以上の大きな責務と存在感がついて回った。 ここで自分が討たれたら、それを好機とばかりに北条だけでなく諸国の大名達が一気に徳川の居城に押し寄せてくる事だろう。 未だ志し半ばである。こんな所でやすやすと北条の手に落ちてやる訳にはいかない。 「殿!!」 その時、焦りに染まった顔で息を切らせて家康の元に駆けつけた一人が名無しであった。 「おお、名無しか。このままではじきに本陣が落ちるであろう。悔しいが、ここはひとまず皆を連れて退路を切り開かねば…」 「家康様、ここは私が囮になりますっ」 「!!」 「私に一計がございます。北条の兵の何割かは、何とか私が引きつけて見せます!どうかその間に、家康様は撤退のご準備を!!」 主の退路を確保する為に、自分が北条の軍に突っ込む。自分が囮になる。 それは誰が聞くまでもなく、まさに命懸けの行為であった。 「殿…どうか私に…、この名無しにお任せ下さい!」 名無しは真剣な表情で、そして固い決意を秘めた瞳で主に告げた。 己が忠義を誓う主の為に、命を捨てる覚悟を決めた臣下の目だ。 「名無し……」 家康は眉間に皺を刻み、そんな忠臣の名無しを見つめた。 戦場での判断は一分一秒を争う。くよくよ迷っているようでは、助かる命すら助からない。 「分かった。名無し、すまぬな……!」 家康は深く頷くと、自分の周囲にいた武将や兵士達を集めて退却の準備を始めた。 家康の為に追っ手を引き受けた名無し他複数の勇猛果敢な三河武将達の奮闘、そして的確な退却指揮を執った家康の手腕でこの日家康は無事に戦場を抜け出す事に成功した。 主君を逃す為に身を投じた何人かの武将達は、北条と風魔の連合軍の刃に倒れた。 しかし、この時風魔小太郎の手によって名無しが生け捕りにされ、小田原城の深くに囚われの身になっているという噂を聞きつけた家康は、ある日の夜一人の影を呼んだ。 「半蔵」 「……はっ」 主の呼びかけに、物音一つさせず半蔵がその傍らに姿を現す。 じっと畳に視線を落とし、彼の命があるまで顔を上げずに静かに片膝を付くその様は、主の命令を待つ犬のように忠実だ。 「相模の獅子の元から、名無しを救い出してくれ」 自分の為に身を投げ出してくれた忠義に厚い臣下の命を、このまま見捨てる訳にはいかない。 「…御意…」 それが主の命とあらば。 家康の命令を聞いた半蔵は低い声で短く答えると、そのまま黒い風となって姿を消した。 それが半蔵が北条の陣地に侵入し、今こうして風魔と対峙している理由なのである。 名無しはその辺にいる普通の町娘ではない。女だが、徳川に仕える一人の立派な戦国武将だ。 運悪く自らが北条の手に落ちるという状況に陥ったなら、捕虜にされるというのはどういう事なのか、それなりの覚悟があるはずだ。 何より、名無しは自分の主を救う為にその命を投げ出すという強い意思のある女。 そんな女が、小田原城の奥でメソメソ泣きながら弱音を吐いているとは到底半蔵には思えない。 「作り話は無用……」 そう考えた半蔵は、迷うことなく小太郎の話を偽物だと切って捨てた。 「…ほう…」 青白い顔に、同じように生気の感じられない色素の薄い唇を歪めながら、小太郎がすいっと目を細める。 「つまらぬ泣き言を申す女ではないと信じるか。結構、結構……」 「……。」 相変わらず心が読み取れない、完璧なまでのポーカーフェイス。 そんな半蔵の姿を目の前にして、小太郎は粋な仕草で片眉を微かに上げる。 「では、こういう話はどうだ?」 囚われの身となった後、名無しがどんな目に遭っていたか知りたいか?と。 気味の悪い笑みを浮かべて問う小太郎に、半蔵は怜悧な視線を注ぐ。 「不要」 「まあそう言うな……。人の話は最後まで聞いていけ。クク……」 地の底から響いてくるように低く、不気味な暗さを宿した声で小太郎が言う。 「捕虜となった者達がどのような目に遭わされるか、伊賀者のうぬが知らぬはずがあるまい」 半蔵は、脅すような風魔の言葉を聞いても決して声を荒げたりムキになって反論するような事はしなかった。 徳川に属する同僚武将をからかうような事を言われても表情を変えず、いつも通りの平静な瞳でまっすぐに小太郎を貫く。 捕虜にされた者はその性別や身分によって様々な用途に使われるが、一番多いのが情報源としての利用だ。 氏康や家康のような主でなくても、名無しのようにそれなりの地位に就いている武将なら十分利用価値があった。 [TOP] ×
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