異次元 | ナノ


異次元 
【真偽矛盾】
 




夜の帳が下り、世界が暗闇に包まれた頃。

多くの生き物が深い眠りに就く時間帯に、活動する者がいる。


夜行性の動物、夜の職業の者、そして─────忍び。


ザアアアッ。

「───?」
「どうかしたか?」
「いや…、今、何か……」

少しだけ、物音がした気がした。

夜勤の兵士が闇の中で目を凝らすが、そう思ったのはほんの一瞬だけの事でもう何も感じない。

彼の隣にいた同僚もその後に続くようにして周囲に気を配ってみたが、やはり何の気配も感じられない。

「誰もいないって。どうせ風の音か何かだろ」
「…そうか…?だったらいいのだが…」

同僚の言葉にただの気のせいだったかと思い直し、兵士は再び槍を構えて警備の体制に戻った。

ここは相模。支配するのは北条の三代目当主・北条氏康。

彼が君臨する城まではまだ大分距離があるが、地理的にはすでに北条の陣地に当たる。

その中を駆け抜けた先程の風の正体は服部半蔵。

徳川家に仕える家臣であり、伊賀忍軍を統べる頭領でもある腕利きの忍びである。

この日半蔵は主君である徳川家康の命に従い、ある目的の為に単身北条の城へと向かっていた。

隠密行動を得意とするのは忍びの常だが、中でもこの半蔵ほどその技に長けた人物は忍びの世界を見回してみてもそういないだろう。

森を駆け抜け、川を飛び越え、暗躍する半蔵の姿はまるで夜の闇に溶ける木枯らしのようだ。

彼が近くを走り抜けても、あまりの早さとその気配のなさに常人ではとても気付けない。

敏感な人間でも『さっき風が吹いたような気がする』、せいぜい何かの気配を察した所でその程度。

(急がねば)

早くしなければ彼女≠フ命が危ない。

半蔵は己に課せられた任務を達成する為に城へと急ぐ。


────その時。


半蔵の行く手を遮るようにして、急に吹き抜けた一陣の風。

その風は渦を描きながらある一点に集まっていくと、やがてその中心から一人の人間の姿を形取っていく。

不意に、半蔵が立ち止まる。

風のように駆け抜ける彼の気配を察知する事が出来る者。そして、彼の動きを読みその行動を妨げる事が出来る者。

そんな事の出来る人間は、戦国武将と呼ばれる者達の中でもよほど名のある強者武将か、半蔵と同じ闇の世界に生きる忍者かくのいちくらいしかいない。

「……混沌か」

驚いた様子もなく冷静に呟く半蔵の前には、軽く見積もっても2メートルを超えるであろう大男の姿があった。

自分がここを通るであろう事を読んで待ち伏せしていたとでもいうのだろうか。

それともずっと自分の後をつけてきたのか。

いつからそこに?

「クク……出来るな、半蔵。戦の後でも寝ずに働く、徳川の良い犬だ……」

半蔵の忠臣ぶりを徳川の犬≠ニ嘲り、楽しげな口調で語るその男の名は風魔小太郎。

半蔵と同じ闇の世界に生きる忍びであるが、彼は北条家の主・北条氏康に仕える風魔忍軍の頭領。

青白い面相に歌舞伎役者のような隈取りを施し、真っ赤なドレッドヘアーという容姿の小太郎。

紺の忍装束に身を包んだ半蔵の姿が正当派の忍びのスタイルだとすると、本来目立つことを良しとしない忍びの信条からすれば小太郎の姿は一種異形に属するものだった。

「何をしに来た」
「知れたこと。偵察よ……」

悠々と腕組みをして半蔵の問いに答える小太郎の両指先では、鋭く研がれた鈎爪が月明かりを反射して妖しく輝く。

「消えよ。乱世の犬…」
「そうもいかぬ。これも忍びの立派な任務なのでな。クク……」

徳川の犬、と自分の事を蔑んだ小太郎に対し、半蔵もまた混沌を愛でる小太郎の思想と存在を皮肉る。

しかし、小太郎はと言えばそんな半蔵の反撃などどこ吹く風といった感じで、相変わらず掴み所のない飄々とした態度で半蔵の言葉を軽く受け流す。

「任務とは、時に便利な言葉よな」

ボソリ。

唐突に漏らされた小太郎の言葉が耳に届き、半蔵が応答する。

「何だ」
「クク……、気にするな。ただの独り言よ」
「戯れ言は無用」

またいつもの小太郎の気まぐれか、それともただの言葉遊びか。

そう判断し、男のペースに巻き込まれないようにと半蔵は外部の情報をシャットアウトしようと試みる。

「小田原城の奥で、可愛い子犬が鳴いていたぞ」

ニヤッと、小太郎が不気味に笑う。

彼の言葉を聞いた直後、ピクッと、ほんの僅かに半蔵の眉が動く。

常人では決して見抜けないようなその半蔵の反応に気付いてか、小太郎は一層楽しげに口端を吊り上げた。

「半蔵……、痛いよ……苦しいよ……」
「……。」
「みんなが酷い事をするの……」
「……。」
「辛いよ……、助けて、半蔵……」
「……。」
「助けて……。半蔵……、半蔵……」

女のようにわざとらしく高めた『作り声』で小太郎が語る。

普段の彼には決して似合わぬその声音と口調は、どうやら誰かの真似をしているようだ。

「そこまで言い終えると子犬は震え、引き裂かれボロ切れのようになった服を懸命に掻き集め、汚れた肌を少しでも隠そうとしました……」
「……。」
「……そしてそのまま布切れに顔を埋めて泣き崩れ、呼吸が止まるのではないかと思うくらいにヒック、ヒック、ヒック…としゃくり上げながら声が枯れるまでいつまでも泣き続けましたとさ……」
「……。」

まるでつい先程見て来たものを説明しているかの如く告げる小太郎の報告に、半蔵は無言で返す。

「この戦乱の世の中、どこの国もたかが女一人を救い出すために貴重な兵力を割く訳がなかろうに」

無視を決め込む様子の半蔵に何ら構う事もなく、小太郎は言葉を続ける。

「小さな前足で何も出てこない地面を懸命に掘り続けるが如く、無意味な行為を繰り返す哀れな子犬よ……」

鮮やかな隈取りを施した男が、吹き付ける夜風でドレッドの髪を揺らしながら、妙に優しい声で言った。

その調子が実に意味ありげだったので、今まで小太郎の事を相手にしていなかった半蔵がゆっくりと体の向きを変えて正面から小太郎を見る。


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