異次元 | ナノ


異次元 
【バレンタイン・ショック(晋)】
 




父親に似て仕事人間の司馬師である。急な残業が入ったと言われれば、それ以上怒る事も出来ない。

男の言い分を認め、素直に謝る名無しの姿を見て溜飲が下がったのか、多少怒りが和らいだ司馬師は不承不承といった素振りで名無しが置いた紙袋の中に入っていた小箱を取り出した。

クールな司馬師の雰囲気に合わせたのか、涼しげなブルーのラッピングリボンを慣れた手付きで解いて蓋を開けると、中からチョコの甘い匂いがほんのりと漂ってくる。

「……!」

そこには、綺麗な丸い形をしたガトーショコラが入っていた。

表面にはキラキラとした細かい金粉が散りばめられていて、嫌味にならない程度の量でまぶされた姿には上品な高級感がある。

チョコの甘い香りに混ざって微かに立ち上ってくるシャンパンの香りは、大人の男性というイメージの強い司馬師の為に名無しが添えたアクセントだろうか。

高級なカカオ豆の風味が濃厚に詰まっていながら、重すぎず、くどすぎず、甘い物が苦手な司馬師でも食べられそうな名無しの渾身の一品だった。

「……手作りだと……?」

一緒に添えられていたメッセージカードを読んだ司馬師の双眼が、驚きと共に見開かれる。

「どういう事なんだ。手作りだし、しかも私の好みまで押さえてあるとは……。お前……何をやっている!?」

みんなと同じ市販のチョコを渡していた事にあんなに不快感を露わにしていた司馬師なのに、いざ手作りチョコを渡してみればこの言い草。

何をどうすればお気に召して貰えるのか予想するのが難しいS系男性の反応に、名無しは困ったように首を傾げる。

「だ、だめだった?」
「なにがだ」
「だから、その、手作りチョコ」
「……別に」
「ええっ…。『別に』だけじゃ分からないよ。大丈夫とか、苦手とか。良いとか良くないとか、子元の好みが知りたくて…」
「悪くはないし、良くない……こともない」
「…え…?」
「だから、別に────嫌いじゃない」

名無しと目を合わせないようにして、顔を反らして司馬師が呟く。

ぶっきらぼうな声で告げられた司馬師の返答に、名無しはホッとしたように柔らかく笑った。

長年の経験で得られた名無しの中の豆知識。

曹丕や司馬懿、司馬師の『嫌いじゃない』『悪くない』は『いい』と同義語なのだ。

それを聞いて安心したのか、体中の力が抜けた名無しはつい司馬師の見ている前で小さくあくびをしてしまった。

咄嗟に口元を手で押さえてみたものの、真正面から自分の顔を見ていた司馬師にその光景をバッチリ目撃され、名無しが恥ずかしそうに頬を染める。

「なんだ。まさかこの為に早起きしたとか言うんじゃないだろうな」
「うん。ちょっとだけ。私、要領悪いしもし失敗したら大変だと思って」
「何時に起きた」
「えっと…、何時だろう。今朝5時くらいかな?」
「はぁ…!?また無駄な事ばかりしおって」

ふん、と司馬師が鼻で笑う。

「そんな言い方しなくても…」
「先に言っておくぞ。来年も同じ事を考えているのなら、余計な気遣いは必要ない」

心地良い美声が、名無しの鼓膜を震わせる。

「朝早く起きてまで手作りしろだなんて余計な事、誰が頼んだ。睡眠時間を削ってまで作ったチョコなどいらない。そんな苦労、誰も求めていない」

相変わらず上から目線で名無しに対してあれこれ指示を出してくる司馬師だが、悩ましい流し目とセットで語られる司馬師の命令は、抵抗しがたい不思議な魔力で名無しの女心を妖しく揺さぶっていく。


「来年も、再来年も。ただお前がいればそれでいい」
「……え……?」


瞬間、体が蕩けるかと思った。


頭の天辺から足の爪先までビリビリッと強烈な電流が走り、名無しの全身が硬直する。

「聞こえなかったか?」
「…子、元…。あ、あの…っ」
「この私に二度も同じ台詞を求めるとは、欲張りな女だ」

どこか禍々しいまでに美しい男が、意味ありげに口端を緩めた。

「私にはお前が傍にいれば十分だと言っている。……それだけだ」

ついでに、ゾクリとするほど甘い低音でそんな際どい台詞を降らせてくれるものだから、名無しの鼓動は否応なく一気に跳ね上がる。

完璧な声が、完璧な顔が、自分を見つめながらお前がいればいい≠ニ言ってくれる。

この世にこれほど抗いがたく、甘美な誘惑はあるだろうか。


「勿論遊び甲斐のあるオモチャとか、奴隷的な意味で───な」
「……えっ」


やっぱりか。


もう毎回の如くで半ば予想出来ていたオチではあった。

分かってはいる。分かってはいるのだが、それでもどことなく湧き上がる喪失感と虚無感が、名無しをしょんぼりとした顔にさせる。

「食べれば終わりといった一時的な物よりも、今後もずっと虐めていたぶって、嫌がらせして困らせて悩ませて泣かせてやれる生き物の方が長い間楽しめてずっといいだろう。実利を追及した結果だ」

楽しげにそう言って、司馬師はニヤリと口端を吊り上げた。

いかにも育ちが良く、品のいい顔立ちの中にも一種の計算高さを秘めた笑みで、司馬師は名無しの心を絡め取る。

「それより、楽しみにしておけ。つまらん物を私に寄越したお返しに、私も来月つまらん物をお前に押し付けてやろう」
「ええっ!?それってどんな物なの?子元。もしかしてびっくり箱とか?」
「クッ…。ハハハッ。真っ先にそんな物が出てくるのか?どういう発想だ。子供か、お前は」
「ううっ…。だ、だって!」

名無しを驚かせたり泣かせる為ならば、司馬師だったら何でもやりそう。そう思ってしまうではないか。

今までに何度も曹丕や司馬懿、司馬師といったサドっ気の強い男性陣に弄ばれ、彼らのいいように振り回され続けてきた名無しは、こんな司馬師の言動につい身構えてしまう。

しかし、そんな名無しのオロオロした反応すら、彼らにとっては空腹を満たすご馳走でしかないようだ。

「正直な話、何が欲しい。着る物か?身に付ける物か。食事か。それとも宝石か?」
「…子元…」
「この私がお前の為に選んでやるのだ。拒否権なんてないからな。覚悟しておけよ、名無し」

身震いするような、ハスキーボイス。

口角を僅かに上げ、機嫌の良い声音で告げる司馬師を目の当たりにして、ここにきてようやく名無しの胸中に素直な喜びと充実感が満ち溢れる。


(子元、なんとか機嫌を直してくれたみたい……。頑張って手作りして良かった!)



─END─
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