異次元 【バレンタイン・ショック(晋)】 〜バレンタイン・司馬師ver.〜 (あああ…、こんなに遅くなっちゃったよ…。子元、まだ起きてるだろうか?) 時刻はもう22時。一応まだ2月の14日だが、後2時間で日付が変わろうというところ。 せっかく早起きまでして手作りチョコレートに挑戦し、ラッピングや梱包の時間作業も含めて出勤前に全ての準備が完成するように心掛けたはずなのに。 事前の予想通りある意味お約束ともいえるパターンというか、この日の名無しには予期せぬ残業が降りかかった。 いくら何でももう遅い。ひょっとしたら、司馬師はもう眠ってしまっているかもしれない。 そう思い、始めはもう諦めようとした名無しだが、丁度通り道という事もあり、とりあえず司馬師の部屋まで足を運んでみる事にした。 もしそれで部屋の灯りが全て消えていたら、チョコを渡すのは潔く諦めようと。 そうして司馬師の部屋に続く扉の前に辿り着いた名無しの視界に映るのは、僅かな隙間から漏れてくる灯り。 廊下をほんのりと照らす光の筋は、そのまま部屋の主がまだ起きている事を名無しに教えてくれる。 (子元…、起きてる…!) その事実が、名無しに小さな勇気をくれた。 忙しそうだったらもうやめよう。迷惑がられたらすぐ帰ろう。 不安と緊張でドキドキと高鳴る胸を懸命に抑えながらコンコン、と扉をノックすると、少しの間を置いて低い声が返ってくる。 「誰だ」 ゾクリとする程硬質で、しっとりと低い男の声。 その声を聞くだけで、名無しの心拍数は色々な意味で一気に跳ね上がる。 「あの…子元。こんな時間にごめんなさい。名無しです」 「……。」 「夜遅くなっちゃったから本当はやめようかとも思ったんだけど、部屋の灯りがまだ点いていたからひょっとしたら子元はまだ起きてるかな?って思って…」 「……。」 「子元に渡したい物があるの。そんなに長居するつもりもないから、良かったら少しだけお邪魔してもいい?」 露骨に拒絶されるのを覚悟の上で、名無しは恐る恐るといった口調で部屋の主に問いかける。 「……入れ」 「……!ありがとう、子元……!」 予想に反して貰えた『OK』の返事に、名無しの鼓動はさらに加速した。 司馬師に礼を述べた後、大きな音を立てないよう、名無しは気を遣いながら慎重に扉を開ける。 「お邪魔します」 ガチャリ。 室内に入った途端真っ先に目にしたのは、今の今まで机の上でずっと仕事をこなしていたという雰囲気の漂う、一人の端麗な若者の姿。 完璧なエリート、もしくは王子様タイプ。今、名無しの視界に映る男はまさにそれだった。 整った眉の下、芸術家が筆でスッと刷いたような美しい切れ長の瞳に、薄い唇は今は静かに閉じられている。 「ごめんなさい、子元。こんな夜更けに押しかけて」 「……。」 謝罪の言葉を述べる名無しを、司馬師は眼球の動きだけでジロリと一瞥した。 陽気で人懐っこい弟と比べ、兄の司馬師は冷静でクールな男性である。 何の約束もしていなかった彼を突然、しかも夜分に訪ねたという事情と彼の性格の両方を考慮してみても、とても笑顔で大歓迎される状況などではない事は分かっていた。 名無しの目から見てみるに、本日の司馬師が名無しに向けるのは普段以上に冷たく、温もりのない怜悧な眼光。 とりあえず部屋には通してくれたものの、内心迷惑な女、鬱陶しい女だと思われてしまったのだろうか? 「────遅い」 酷く冷たい声が、吐き捨てるように放たれる。 ビクッとして男の顔を見た名無しの両目に映るのは、見る物の心までたちまち凍らせてしまうかのような、氷の如き司馬師の美貌。 彼の台詞を単純に時間的な意味だと思い込んだ名無しは、心底申し訳なさそうな顔付きで再度『ごめんなさい』と司馬師に告げる。 (ううっ…。今日の子元、なんだかいつも以上に凄く機嫌が悪いかも) これ以上余計に司馬師の神経を逆撫でしてしまう事のないように、あまりこの部屋に長居しない方がいいと判断した名無しは持参した紙袋をサッと司馬師の机の上に置く。 「これ、子元の分。バレンタインのチョコレートです」 「……。」 「子元の口に合うかどうか分からないけど、良かったら気が向いた時にでも食べてね」 司馬師は名無しに差し出された紙袋に視線を向けると、次に冴え冴えとした双眼で名無しを捉える。 ─────悲しいくらいに無反応。 せめて『ああ』とか『そうか』とか『ふーん』くらいでも相槌を打って貰えれば多少は安堵出来たような気もするが、返事の一つも寄越さない司馬師の態度にさすがの名無しも悲しみを抱く。 そりゃ、子元ほどの人間からすれば今日一日だけですでに数え切れないくらい大量の贈り物を女性達から貰っているでしょうし。 私の用意したチョコなんて氷山の一角、取るに足らない存在どころか『また荷物が増えた』『置き場所がなくなる』『ゴミを出す手間が多くなる』みたいに思われているのかもしれないけど。 それでもそんな風にして、いかにもどうでもいい≠ニ言わんばかりの冷たい対応しかされないと、やっぱり心がへこんでしまう……。 「本気か?」 「……えっ」 たった三文字の、司馬師の言葉。 何の予告もなく投げかけられたそれ≠ェ一体何を指しているのか理解出来ず、名無しは言葉通り『え?』という顔をする。 「だから、もう一度聞く。本気か?」 そんな名無しにさらなる追い打ちをかけるかの如く、再度降らされる謎の質問。 えっ…、えっ。 本気って何。誰の事。 私の事?ええっ? 二度の問いにも何の事やらさっぱり分からない、といった顔で見つめ返す名無しの反応が余計に気に食わなかったとでもいうのか、司馬師の眉間に刻まれた皺が一層深いものに変わっていく。 この日の司馬師は明らかにいつもに比べて不機嫌で、苛立ちにも思える感情を全身から滲ませていた。 「それ」 「えっ。これ?」 軽く顎を上げて示す司馬師の動作に導かれてその誘導先を見てみると、名無しが彼の視線を追った先には手元の紙袋があった。 司馬師がさっき質問したそれ≠ニいうのは、ひょっとしてこのチョコレートの事なのだろうか? [TOP] ×
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