異次元 | ナノ


異次元 
【略奪遊戯】
 




「半兵衛殿…。ど、どうなさったのですか?一体…」
「えー…、だって口説かれてるんでしょ?それとももうすでに恋人関係の状態まで進んでいるの?そっちの方が俺的には大歓迎なんだけど」
「……!?はん、べ……」
「やばいなあ…。ホント、ゾクゾクする。俺凄い好きだもん。他の男が狙っている女とか、他人の恋人とかね……」

低い声で吐息混じりに呟いた半兵衛の指先でスーッと頬の輪郭をなぞられて、名無しの背中がギクリとしなる。


「もうそれだけでめちゃくちゃそそられるんだよ。─────『他人のモノ』って」


唇から赤い舌を覗かせてペロリ、と舌舐めずりする男の姿が人間ではない魔物かあやかしのように思えて、名無しは喉をヒクッと詰まらせた。


≪奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……≫


以前古い書物で読んだ『猫又』の存在を、何故かこの時名無しは思い出した。

人間の姿に化け、人を誑かし、一晩で数人の人間を食い殺したという伝承まである魔力を秘めた猫の妖怪。

もしくは同じ猫の妖怪という繋がりで言うのなら、年老いた山猫が神通力を身につける事によって進化し、美男美女に化けて人間の精気を吸うと言われている異国の『仙狸(せんり)』。


美しい容姿と巧みな話術で人を惑わし、狙いを付けた相手を喰らい、その精気を吸い取り、自らの糧にする。


猫科の魔物にまつわる言い伝えと、彼の生態は酷似している。


何故か────そんな事を思った。


「離し……」

逃げなくては。

本能的な危険を感じ、男の胸を突き放して立ち上がろうとした名無しの腕を、半兵衛が素早く掴む。

「くっ…!」

名無しは掴まれた手首を咄嗟に捻り、勢い良く顔の横に振り上げて男の腕を外そうと試みた。

しかし、そんな名無しの動きを先読みしているかの如く、彼女が一連の流れを行うよりも早く半兵衛が手首を回転させて名無しの腕を別の角度から掴み直し、そのまま足払いへと移行する。

(……えっ!?)

ダンッ。

男に足元をすくわれた事で体勢を崩し、己の体がフワッと一瞬宙に浮いたと思ったのとほぼ同時に名無しの体は座布団の上に叩き付けられていた。

鈍い痛みがジンジンと頭の天辺から爪先まで込み上げる中、揺れる視界の先では男が自分の上で馬乗りになっている。

「なかなかイイ線いっていたと思うけど、護身術の基礎技なんて俺には効かないよ。はい、残念でした〜」
「……っ」
「っていうか、俺だけじゃなく他の男武将にやっても全く効果ないんじゃないかな?これが普通の男ならさっきの腕外しも上手い事決まっていたかもしれないけど、そういうの≠普段から嗜んでいる俺達みたいなのにそんなのが通じる訳ないじゃん。軍師だからってナメてんのかなんだか知らないけどさ、俺だって戦の時には結構活躍してるの、ご存じない?」

そうだった。

汚れない美少年のようなすまし顔をして、戦闘時には無双奥義で何十人という敵の兵士達を吹き飛ばしている半兵衛の姿を名無しは何度か見た事がある。

肉弾戦のプロフェッショナルである清正や幸村、長政や宗茂達の戦闘力の高さは言うまでもないが、頭脳労働者である軍師という職業の三成や半兵衛といった男達もまた戦場で戦えるように普段から鍛練を積んでいる為、世間一般の男性達に比べてみれば遙かに強いのだ。

「下、座布団だからそんなに痛くなかったでしょ?」

痛みに呻く名無しの両腕を半兵衛が左手で掴み、彼女の頭上で器用に固定する。

「ごめんね、名無しさん。凄い言い訳じみた台詞に聞こえちゃうかもしれないけど、本当はこんな事するつもりなかったんだ。そりゃちょっとはこのオトモダチ関係にも飽きてきたかな〜とか焦れてきたかな〜って部分はあったけど、それでも俺、今日は本当に君の相談に乗る為だけに来たんだよ。……今の今まではね」

天使のように煌めく美貌で笑った半兵衛の右手が、名無しの頬を伝う涙を優しく拭う。

「半兵衛…ど、の…」
「大丈夫、そんなに酷い事しないから。ちょっと我慢してたらすぐに終わっちゃうよ。お医者さんにかかるのと一緒で。良い子だからおとなしくしてて頂戴……。ねっ?」

文章を読み上げるように淡々と述べる半兵衛の語り口調が、余計に不気味で恐ろしい。

完全に硬直しきって瞬きするのも失念している名無しの喉へ、半兵衛が濡れた舌先をツツーッ…と這わせてくる。

「う…、嘘…!イヤっ…!こんな…離し……」


半兵衛殿はこんな事をしない。


半兵衛殿は絶対にこんな事はしない!!


最後の最後までそう信じ込もうとし、名無しは焦って男の体を押しのけようとして身を捩る。


「半兵衛殿、どうなさったのですか!?半兵衛殿はこんな事をされる方じゃありません…!私、信じてますからっ!」
「……名無しさん……」
「私、本当にあなたの事……」
「あ─────っ、も─────っ!面倒くさ─────っ!!」


激した声に、恐怖心で名無しの全身がビクンッ!と跳ねる。

「ハァ……。やっぱ俺って、本当にナンパ師向きじゃないな〜っ。見ての通り美形だし、超天才だし、地位も高いし、プライド高いし、黙っているだけで女の子が寄ってくるし、性的な面で不自由した事も一切ないし、生まれてからずっと女関係は苦労知らずだし……」
「……半……」
「自分からわざわざ下手に出て女に媚びへつらう必要性ってのが基本的にないからさあ、ベタベタに甘い顔して女の子を宥めたりあやしたりっていうのは本気で性に合わないんだよねー。それよりよっぽど上から目線で追い詰めて相手をカタにはめていく方が好き。大好き。絶対!」

チッと舌打ちしながら吐き捨てる半兵衛のこの姿は、名無しが今まで一度も目にした事がないものだった。

『本性丸出し』という感じでガラリと人が変わってしまったような半兵衛の態度に絶望を覚え、名無しの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ出す。

どうしてこんな風になってしまったのだろう。自分はどこで間違えてしまったのだろう。

半兵衛に対する己の接し方にきっと問題があったのだ、と悲しみの淵で名無しが後悔するも、今更もう遅い。


[TOP]
×