異次元 【籠の鳥】 『このままでは本当に名無しの身が危ない。心配です』 『約束したではないですか。もし適任者が不在となった時は、私の名前を貴女の口から信長様に告げて下さるって。この蘭丸を推して下さるって!』 元々かなり義理堅い一面を持つ彼女の事。 まさか本当にそんな事になってしまうとは全く予想していなかった事とはいえ、約束事は約束事。 その場の勢いで私と交わしてしまった契約を、ここにきて破ってしまう事にはそれなりの抵抗があったのだろう。 数日間悩んだ後、名無しは私との約束通り信長様の前に進み出て、私が教えた通りの台詞を口にした。 最近、城のあちこちで不穏な事件が起こっていること。 女官だけしかいない自分の周囲を心許なく感じ、護衛団とまではいかないものの、身の回りの世話と護衛役を兼ねた小姓が一人欲しいこと。 そして、その役目は森蘭丸に任せたいということ。 その話を名無しから告げられた信長様は、しばしの間黙り込んでいた。 そしてようやく考えがまとまったというような様子で名無しの顔に視線を戻すと、人の悪い含み笑いを浮かべてこう言った。 『何故そのような話になっているのかは知らぬが、お蘭め…そういう事か。全く、うまくやりよるわ……』 『……え……』 何の話をされているのか、全然分からない。 きょとんとした表情で自分を見上げる名無しを鋭利な双眼で見下ろすと、信長様は普段と変わらぬ低く張りのある声音で彼女の願いに同意を示した。 『良かろう。お蘭は長く儂の小姓を勤めていた身だが、今の儂には濃姫がおる。世話役は一人で良い。それに…お蘭を他の国へ差し出すというならいざ知らず、うぬの傍に付けるというのなら、儂の目の届く範囲で動く事には変わりがない。儂から見ればうぬもお蘭も可愛い部下だ。織田家への忠義に厚い者同士が互いの絆を深める事は、儂にとっても得になりこそすれ、別段損をする事でもない』 『…!そ、それでは…信長様っ』 『良い。許す。しかし名無し。うぬも知っているとは思うが、あやつは小姓出身ながらその辺の武将よりよほど腕も頭も切れる男だ。お蘭の扱いには、くれぐれも……注意するのだぞ』 名無しからその報告を受けた私は自らの望みが叶った喜びと共に、何とも言えず背中の痒さを感じてしまい、ついつい彼女の前で声を上げて笑ってしまう。 何がそんなに可笑しいの?と不思議な物を見るような顔で私を見る名無しの視線を軽く受け流しながら、私は信長様の放った言葉を一人頭の中で反芻させていた。 もし信長様が名無しから後々詳しい事情を聞いたとすれば、あの方はすぐに話の流れを把握して、今回起きた一連の出来事は全て私の仕業だと即座に気付かれる事だろう。 そしてあの薄い唇を不敵に歪め、もう一度『お蘭め、うまくやりよるわ』と笑いながら言って下さる事だろう。 だって、私と信長様は同じ世界の空気に棲む人間だから。私の気持ちは信長様が一番良く分かって下さると思うから。 そしてそんな私の事を、信長様は心底気に入って下さっているのを私は本能的に知っている。 ですが名無し。私と信長様は似て非なる存在で、所詮私や光秀殿なんかがどれだけ逆立ちしたって信長様には適わない。 だってあの方は第六天魔王なんだもの。 そうですよね?信長様。 『自らが望む物を手に入れる為』ならば、信長様はこの蘭以上にどんな手段も方法も辞さない恐ろしい御方なんだもの。 その日の夜。 一日の仕事を終えた私と名無しは机の上の書類を片付けて、そろそろ床につく事にした。 互いに入浴を済ませて寝巻に着替えた後、私は名無しのすぐ隣に並べるようにして自分の布団を敷いた。 すでに夫婦の関係だというならいざ知らず、ただの従者に過ぎない私が何故名無しと同じ部屋で寝食を共に出来るのかというと、『警備の都合上』そちらの方が合理的だと名無しも認めてくれたから。 そんな警備上の理由を盾にして、私は堂々と彼女の隣に枕を並べて眠る事が可能となる。 こういうのがまさに役得と言うのだろうな。 「何だかすごい雨だね、蘭丸。怖いくらいに…」 「本当ですね。こうも大きな雨音ですと、それ以外の音が何も聞こえてきませんし。最近は本当に妙な天気が続きますよね」 地面を打ち付けるような激しい雨音を耳にして、名無しが心配そうにポツリと呟く。 日が沈んでから降りだした雨は次第に勢いを増していき、時々白い光が点滅したり、遠くの方ではゴロゴロと雷が鳴る音がする。 ここ数日はずっとこんな感じの不安定な天候が続いていたのだが、時間的にも状況的にも、天の恵みとしか思えない。 余計な物音を全て消し去ってくれるような激しい雨音は、今の私にとって心強い味方となってくれる事でしょう。 「じゃあ、蘭丸。おやすみなさい。明日も一日頑張ろうね」 「おやすみなさい、名無し。よい夢を……」 就寝前の挨拶を一言二言交わした後、私と名無しは互いに布団を被り、眠りにつく準備をする。 襖の僅かな隙間から漏れてくる、眩しい閃光。 地上に生きる全ての生命を威嚇するかの如く轟く雷鳴と、降り続く豪雨の音だけが夜の寝室に響き渡る。 それ以外は本当に何の物音も聞こえてこない、初秋の夜。 外の様子と室内の静けさがあまりにも対照的で、ある意味不気味さを感じてしまう程だった。 「……。」 あれからどれくらいの時間が経過した事だろう。 床についてからすぐに目を瞑っておとなしくしていた私だが、実際は少しも寝ていなかった。 薄く目を開けて隣で眠る名無しの様子を見てみると、どうやらそれは彼女も同じ事らしい。 さっきから何やらごそごそと布団の中で体を動かし、左右に寝返りをうったりしている。 寝心地が悪いのか、それとも心が落ち着かないのか。 少しの間じっとしていたかと思えば、やはりどうしても気になる、とでも言うように、廊下に続く襖の方に何度も顔を向けている。 [TOP] ×
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