異次元 | ナノ


異次元 
【籠の鳥】
 




「だったら、辞めてしまえばいいじゃないですか」
「……え?」

私の右手がスーッと上がり、衣装の裾が夜風に吹かれてなびく。

そして、上げられた私の片手はそのまま腰の方へと滑っていくと、腰元に備えられた刀の柄でピタリと止まる。

「つまらない、面白くない、楽しくない…。そんなに不満がある人生なら、いっそすっぱり辞めてしまえばいいじゃないですか」
「!!」
「不平不満を抱えたままでダラダラと毎日を過ごす事に、何の意味があるというのですか。そんな後ろ向きな人生に、一体何の価値があるというのですか?」

闇夜に響き渡る私の声を聞いた男の体が、ブルルッと震える。

だがこの男が体を震わせたのは、決して夜風の冷たさのせいでも、月が隠れて自分達の周囲が暗闇に包まれたからでもない。

私の全身から発せられる『気』があまりにも悪意に満ちていて、血に飢えた獣のような獰猛さすら感じられたからである。

「男なら、本当に欲しい物くらい自力で奪い取りましょうよ。その程度の技量も気概もない兵士なんて、戦場ではなんの需要もありません。飲み食いするだけ、いいえ、息をするだけ────資源の無駄です」
「ひ……っ」

満月を覆っていた雲が風に吹かれてちぎれ、その隙間から僅かな月光が地表に向かって降り注ぐ。

月明かりを反射した私の瞳は金色に輝いて、まるでこの世の生き物ではないと思える程の禍々しさと狂気に満ち溢れていた。


「……降りましょうよ。どうせつまらぬ人生なんだから」


チャキン。


そう言うが早いか、私はおもむろに男に対する敵意を剥き出しにして、腰に差していた刀を鞘から抜き取った。

その光景を目の当たりにして、もはや弁解の余地無し、と悟った男が苦渋の色に顔を歪めながら、仕方なくといった様子で腰の剣に手を滑らせる。



その人の顔を見ているだけで幸せで、側に居られるだけで幸せで。

幸せで、幸せで、愛おしくて、彼女の側に居られる為なら私は何だって出来る。



きっとこの夜の出来事は、彼女と私が出会った時から、すでに起こるべくして起きたものであり。




────それは恐らく、ずっとずっと前から決まっていた事だった。





名無しが私に悩みを打ち明けてから、今日で丁度1ヶ月。


彼女が秘密裏に選んだという小姓候補の3名は、全員謎の死を遂げていた。

一人目の人間は階段から誤って足を踏み外したのか、階段下で頭から血を流して死んでいる姿を女官に発見された。

二人目は城門の入口付近で倒れているのを門番の兵士に発見され、彼の所持品から貴重品や金品の類が全て奪われていたことから物盗りの仕業ではないかと噂された。

そして最後の三人目は、そもそも今どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかすら定かではない。

数日前から突如姿が見えなくなって、そのまま行方不明となっている。

死に方も、消え方も、そして彼らが居なくなった時間帯も。

その全てがバラバラで、何の共通点も見当たらない事から、この3人の死を結びつけるものは何もないと判断され、事件の真相は謎に包まれた。

そしてまた、これが光秀殿や濃姫様のような戦国武将だというならいざ知らず、亡くなった男達はそれほど位の高い兵士ではなかったという事もあり、彼らの死について真剣に調べようとする者など一人もいない。

最初の内こそ城内が少々騒がしくなった事もあったが、そんなざわめきも今ではすっかり鳴りを潜め、人々の記憶の中からは一兵士達の死など次第に薄れていった。

いつ何時、どこで、誰が消えて、誰が死んで、誰に殺害されてもおかしくない。

そんな戦乱の世の中で、位の高い貴族や武将達以外の人間の死が大きく取り沙汰される事など、基本的には無きに等しい事柄なのだ。


───────名無し以外には。


『な…なんで…?どうしてっ。どうして彼らが…こんな事に…』


彼らの訃報を耳にした時の彼女のショックは大きかった。

ひょっとして、これは全て自分が彼らに頼み事をした事と何らかの関係があるのではないか。

自分が声をかけた3人がこのタイミングで一度に散ってしまった事を知り、名無しはまずその線を疑った。

しかし、死んだ時期も死因もその全てが異なる為に、彼らの身に起こった出来事について名無しがその真実を探ることは不可能だ。

それだけではない。確かに彼女が声をかけた3人が立て続けに亡くなったり行方不明になっている事は間違いのない事実だが、この1ヶ月の間ですでに何人もの兵士達や女官達が物言わぬ死体となって発見されている。

このご時世、人の死は別段珍しい事でも何でもない。『いつもどこかで誰かが死んでいる』というのが正しい。

何より行方不明になった約一名なんか、内心名無しに言われた役目を果たすのが嫌で、正面切って断るにも断り切れず、自分の意志で城を出て行った事も十分考えられるのだ。

だからこそ、一瞬そんな考えが脳裏をよぎった名無しだが、偶然にしては出来すぎた事もあるものだ。残念な出来事だ…と結論づけるより他にない。

今の段階では、何一つ『何者かによる犯行』という証拠がない。




そしてそれから数週間もしたら、いなくなった3人の話なんて、誰も─────聞かなくなった。





「名無し。そろそろ外が暗くなってきましたが。まだ仕事を続けられますか?」
「あっ…。本当…もうそんな時間?ごめんね蘭丸。いつも私の仕事の手伝いばかりさせちゃって」
「とんでもありません。貴女の身の回りのお世話をする事が、私の仕事なのですから」

名無しの警護をする適任者が全員いなくなった今、私は彼女の小姓の座に納まっていた。

始め、名無しは『蘭丸に迷惑をかけたくない』とか何とか言って、私を護衛に選ぶ事にかなりの消極的な姿勢を見せていた。

しかしあれからも引き続いて名無しの周囲では不可解な事件が起こっていた事と、連日のように辛抱強く彼女の説得にあたっていた私の行動が功を成した。


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