異次元 | ナノ


異次元 
【籠の鳥】
 




私が信長様のお側から名無しの護衛役に移ったとしても、私の主君はあくまでも信長様ただ一人であり、あの方の手を離れるという訳でもない。

信長様のお声がかかれば私も名無しと共に信長様の元に馳せ参じる訳だから、よくよく考えてみれば私の身の置き場が多少変わるだけの事であって、信長様と私の主従関係には何ら変化が起こるという話でもないのだ。


それに、他人の心の機微には鋭いあの方の事。普段滅多な事では自らの事で主に願い事など申し出る事のない名無しの性格から考えて、表だった理由は口にせずとも彼女の身に何か起こっている事くらいは瞬時に察して下さるに違いない。




その点から考えてみても、名無し自ら信長様に進言して下さるというのなら────通る。



「…分かりました。蘭丸がそこまで言うなら…」

いつになく真剣な眼差しで彼女を射抜く私の態度に、名無しが観念したようにコクンと頷く。

思い通りの言葉が彼女の口から引き出せた事を悟り、先程まで若干険しい顔を見せていた私の頬が軽く緩む。

「分かって頂けて良かったです。でも…名無し。不躾な事を言うかもしれませんが、身の回りにはくれぐれも注意した方がいいですよ。そういう事をする犯人は、大抵被害者の身近な人物の場合が多いと聞きますし」
「貴方も、そう思う…?」

恐る恐る告げられるその問いに、私は『その通り』とばかりにニヤリと口端を歪ませる。

見るからに気落ちした表情を浮かべて俯く名無しの頬をそっと指先で撫でながら、私は彼女の顔を下から覗き込むようにして尋ねた。

「意外と光秀殿辺りだったらどうします?」
「なっ…?何を…何を言うの蘭丸っ。あの光秀に限ってそんな酷い事をするはずはないでしょう!?」

私の言葉を聞くなり、名無しは青ざめた顔で大きく目を見開いた。


「……ですよね」


名無しの髪に指を絡めつつ、私はふふっと意味有りげな笑みを零す。

確かに名無しの言う通り、あの人なら絶対にそんな馬鹿げた真似はしない事だろう。

特に、好意を持つ女性の神経を弱らせて、精神的に追い詰めるような真似なんて、本当に好きな女性であればある程に出来ない事だろう。



あの人は……ね。



「ですが名無し。もう一度言います。他人なんてそんなに簡単に信用しない方がいいですよ」

私は愛撫するように彼女の髪の毛に執拗に指先を絡ませると、自信たっぷりの声でそう断言した。

諭すような私の声は何かを予兆する予言者みたいに、妖しい程低く、縁側で静かに響く。

名無しは正体不明の犯人に怯えるようにそっと涙で潤んだ瞳を閉じると、小さく体を震わせた。


身内を疑いたくないという貴女の気持ちは分かりますが、本当に信用しない方がいいのですよ。


特に自分の一番身近な人間は。




────そう。残念ながら。





殆どの人々が深い眠りに落ちる、丑三つ時。

上空には満天の星空が輝いて、淡い月明かりが地上を照らしている。

深夜の警備を終えた男が次の兵士と交替する為に控え室へと続く道程を歩いていると、不意にパキンという小さな音がした。

何者かが小枝を踏みしだくような不穏な物音に、男はその場で立ち止まり、音のした方向を険しい目付きで睨み付ける。


しかし、誰の気配もない。


警備の兵以外は例え身分のある者でも滅多に立ち入る事のないこの場所で自分の足音以外の物音がするのを怪訝に思い、男は大きな声を上げた。


「誰だ?そこに誰かいるのか?」


誰かいるのか?と聞かれては、姿を見せない訳にはいかない。

そう思った私は自分を呼ぶ声に応えて木の影から姿を現した。

「今晩は。今夜はいい月夜ですね」
「あ…貴方は…蘭丸様?」

予想外の人物の姿を目に留めて、男が大げさな程に両目を見開いている。

闇夜に輝く満月を背後に背負い、私は努めて厳かな口調で彼に尋ねた。

「質問します。貴方の名前は勝義。織田軍入りして、先月で5年目」
「は…はい。そうですが…」
「そう…。そして先日名無し殿から護衛兵の話を持ちかけられ、出来れば来月位までには返事を欲しいと言われている。そうですね?」

そう聞くと、男は一瞬不思議そうな顔をしたが、私の問いに素直に頷いた。

「確かにその通りですが、それが如何されたと言うのですか?蘭丸様は……」

そこまでしゃべってから、男がハッとしたように息を飲む。

男の答えを聞いた私の容貌が、みるみる内に険しいものへと変化したからである。



「───そうすると、ちょっと困ってしまうんです」



抑揚のない声で淡々と話し続ける私を見て、男がゴクリと喉の奥を鳴らしている。

すると男は、私の言葉の裏側に隠された真意を読み取ろうとするかの如くじっと私の瞳を睨み付け、僅かに掠れた声でもう一度私に聞き返す。



「誰が、一体どんな理由でお困りになると言うのですか?」
「……誰でしょうね?」



震えながら私に尋ねる男に対し、私は唇を吊り上げてニヤッと笑うだけ。

その時私が浮かべた黒い笑みは、まるで昼間の光秀殿と同じ位の不気味な冷たさに満ちていた。

「さらに聞きましたよ。貴方はお役目の影響で思うような時間が取れず、付き合って2年目の恋人とはなかなか会えない日々を過ごしている。つい先週も約束していたと言うにも関わらず、恋人の誕生日を一緒に祝ってやる事が出来なくて、危うく喧嘩別れになる所だったそうですね」
「…!な、なぜそれをっ…」
「それで、こんな仕事はつまらない、好きな時に好きな女を自由に抱くことも出来ないような兵役は、自分から望んでやった事ではないのだと。二人の結婚資金の目標額が貯まったら、こんな仕事はさっさと辞めてやるんだ。面白くない、楽しくない…と仲間の兵士に毎日漏らしていたようですね」

周囲の者達から集めた情報をもとに事実を述べていただけの私の目が、闇の輝きにギラリと光る。


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