異次元 【籠の鳥】 それを手にした貴女が一体どれほど驚いて、どれほど大きな悲鳴をあげてくれるのか。 そんな事を頭の中で一人妄想してみるだけで、楽しみで仕方ない。 あろう事なら湯飲みの底に溜まった精液を指先でこそぎ取り、貴女の顔に塗りたくりたい。 赤く濡れた唇を無理矢理こじ開けて、その指を強引にねじ込みたいと思う彼の気持ちが。 「別に殿や光秀の事を頼りにしていない訳じゃないの。逆に彼らの事を信頼しているからこそ、自分にとって大切な人達だからこそ、余計に心配をかけたくなくて……」 「そうですよね。ええ。分かります」 信頼している相手だからこそ、大切な人達だからこそ、何も言うはずは無いだろう、と。 貴女に限って絶対に行動を起こすはずがないだろう、とたかをくくっている男の思考が。 貴女のそんな性格を見抜いた上で、その人物は犯行に及んでいるのだという事が、私には手に取るように分かります。 「ですが名無し。貴女の周囲でそんな事が起こっているというのであれば、黙って見過ごす訳にはいきません。お気持ちはよく分かりますが、やはり信長様にそれとなく話を持ちかけて、警護の者を増やしてもらうなりした方がよろしいと思いますよ」 名無しを力づけるつもりで言った言葉を、彼女は哀しげな瞳で受け止めている。 「本当の理由が知られたくないというのなら、事情を曖昧にぼかしてお伝えする事も可能です。最低一人でもいいので、腕の立つ男性武将をお側に置いた方がいいと思います」 名無しの身の回りの世話をするのは女官達の役目だが、裏を返せば何かあった時に対処をするのは女達しかいない事になる。 いくら城全体には武器を備えた兵士達が常駐し、形としての警備は整っているとはいえ、問題があった時に遠くから駆けつけたのでは間に合わない恐れがある。 名無しの側にぴたりと控え、いついかなる時でも彼女の危機に対応できるような武芸に秀でた男の一人や二人がいなければ、この状況ではあまりにも心許ない。 「実は…私もそう思っていたところなの。確かに私もそれなりに護身術は身につけているつもりなんだけど、相手が男の人とあれば万が一っていう事もあるし。変な意地を張るよりも、警備の人を付けて貰いたいと思って」 「…へっ?」 予想もしなかった名無しの発言に、思わず間の抜けた声が出る。 すると名無しは片手を口元に添え、物思いに耽るような素振りを見せると、少し迷った後で言葉の続きを述べた。 「私の為に大勢の兵士まではいらないから、腕が立って武芸に秀でて、常に私の側にいてくれるような…24時間ずっと私と一緒にいてくれるような…」 「…名無し。それって…」 「私の事を守ってくれるような、信頼できる小姓というか、護衛兵というか…そんな人を募集したいと思っているの」 これは、夢か。 名無しの口から零れ出た言葉がにわかには信じられなくて、とても現実のものとは思えなくて、私は無意識の内にゴクリと唾を飲む。 今こそ、千載一遇の機会なのだ。 言え。言うんだ。 何をしている蘭丸。お前はそれでも覇王の脇を固める鬼童子か。 ─────言ってしまえ。 「……名無しっ。そのお役目は、私が─────」 私は震える身体を押さえ付け、私の申し出を聞いた名無しが次にどのような行動に出るか、半ば祈るような気持ちで待とうと思った。 しかし、そんな私の思惑を打ち破るように名無しが爆弾発言を口にする。 「実はもう3人くらい候補を選んであって、昨日の内に声をかけてきたの」 「……えっ?」 彼女が発した言葉の意味を理解するのに、私はしばらくの時間を要した。 私は咄嗟に返す言葉が見つからず、かわりに無言のままで名無しの台詞の続きを待った。 「それで、良くても駄目でもどちらでもいいから、出来れば来月位までには返事を下さいってお願いしてきた所なの。こちらからの勝手な要望に付き合わせるような事はしたくないからあくまで『お願い』なんだけど、誰か一人でも承諾してくれたら嬉しいな」 「…その3名のお名前と役職を、お聞きしてもいいですか?」 干からびた喉の奥から、呻くような声が漏れる。 獰猛な野生の獣が獲物を前にして、その獲物に気付かれないようにと必死で沸き上がる衝動を抑え込んでいる時のような、低くて暗い唸り声。 私の双眸に一瞬宿った黒い輝きに気付くこともなく、名無しは素直に私の質問に対する答えを教えてくれた。 彼女が告げた男達の名前と役職名を徹底的に己の脳裏に叩き込むと、私はにこやかに両目を細めて名無しの手を取った。 「名無し。もし…もし…万が一。その方達全員に断られてしまったら。何らかの事情で小姓の適任者がいなくなってしまったら、その時は是非ともこの蘭丸をご指名下さいね」 「!!」 「貴女がそのように大変な目にあっている時に、何も出来ないなんて悔しいです。若輩者ではありますが、これでも一応剣術や武道には自信があります」 「……え……」 「こんな私で出来ることがあると言うのなら、私はどんな些細な事でも名無しのお役に立ちたいのです」 名無しの両手を包む込むように、優しく労るようにしてギュッと自分の両手で握り込むと、名無しが少々困った様子で恥ずかしそうに頬を染める。 「蘭丸…有り難う。その気持ちだけでも私は十分嬉しいよ」 「そんな他人行儀な言い方はよして下さい。私は本気で言っているんです。同じ職場の同僚として、心の底から貴女の事を心配しているのですよ?」 真面目な提案を軽く受け流す名無しの行為を許さないとでもいうかの如く、私は今までにない強い目付きで名無しの顔をキッと睨む。 普段私が彼女に見せる顔とは明らかに違うその表情に、躊躇いがちだった名無しの瞳に今までとは異なった色が混ざり始める。 「約束して下さい、名無し。もし適任者が不在となった時は、私の名前を貴女の口から信長様に告げて下さると。名無しの護衛役にはこの蘭丸を推して下さると」 確かに私は信長様の小姓だが、今の信長様にはあの濃姫様がいる。 私が今までのようにあれやこれやと信長様のお世話をしなくとも、あの方の身の回りは全て濃姫様が担っているのだ。 [TOP] ×
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