異次元 【籠の鳥】 彼女の身の回りの世話をしている女官達は、名無し専属の女官だけあってそれなりの高給を与えられているはずなので、そんな女達が危険を冒してわざわざ主の筆一本や重し一個を盗んでいくとは考えにくい。 それでは、と思っていやがらせや個人的な怨恨による犯行の線を辿ってみたが、ここ最近特に誰かと喧嘩をした記憶もないし、揉めた覚えもない。 それとも、そう思っているのは自分だけで、本当は自分が知らない所で誰かの恨みを買ってしまっているのだろうか。 かと言って、実際に誰かが自分の持ち物を盗ろうとしている場面を見たという訳でもないのだし、何の証拠もない時点で周囲の人間に問いただすのも気が引ける。 それに何より、根拠なく自分の部下や知人を疑うのは自分としても気持ちのいいものではない。 もっときちんと状況証拠が集まって、事実関係が明らかになってから周囲の人に聞いてみよう。 名無しがそう思い悩んでいた矢先、とうとう三つ目の事件が起こった。 それは彼女が普段から愛用している茶器にまつわるものだった。 ある日の事、軍議を終えた名無しが自分の部屋に戻ってみると、何やら女官達が困った様子で食器の入っている棚を覗き込んでいる。 どうしたのかと聞いてみると、どうやら名無しの湯飲みがどこにも見当たらないようだ。 ない、ないと言って騒いでいる女官達の姿を見ながら、名無しは正直『またか』と思った。 今度は食器が無くなったのか…と思いつつも、これ以上女官達に余計な心配をかけたくないと思った名無しは『後から自分で探すからいいよ』とか何とか言って、適当にその場を取り繕う。 その後名無しは自分でも実際に探してみたが、結局湯飲みは見つからなかった。 仕方なく新しい湯飲みを買ってそれを使って何日か過ごしていたところ、会議から戻った名無しの視界に、不思議な光景が飛び込んできた。 執務机の中央に、湯飲みが一つだけポツンと置いてある。 しかも、どこかで見た覚えのある柄。 それが無くした湯飲みだという事に気付いた名無しだが、何故ここへきて突然出てきたのか不審に思う。 だが、ないないと思っていた物が、ふとした拍子に見つかることはよくある話だ。 きっとどこかから出てきたので、女官達が自分の机に置いてくれたのだろう。 ともかく、何はともあれ見つかって良かった。 今までは無いと思った物はいつまで経っても見つかる事はなかったので、お気に入りの私物が手元に戻ってきた喜びで名無しの胸は一杯だった。 さっそくお茶でも入れて飲もうと思った名無しが件の湯飲みを手に取った時、彼女はある異変に気が付いた。 湯飲みの中には、白くてドロリとした謎の液体が入っていたのだ。 『ひっ……!』 驚いた彼女の口から、くぐもった悲鳴が漏れる。 咄嗟に引っ込めた名無しの手から湯飲みが離れ、冷たい畳の上に転がり落ちていく。 反動でコロコロと回転する湯飲みの口から吐き出された白い液体が、畳の上に散らばって染みを作る。 畳を濡らす白濁液からかすかに感じられる、ツンと鼻をつくような雄の匂い。 謎の液体の正体は、紛れもない男の精液だった。 「な…何も思い当たる節がないの…。本当に…何も…」 「……名無し」 「あ、あんな事をされる覚えなんて、何一つないのに……」 そりゃ、そうだろう。 自分の湯飲みに知らない男の精液がべったりこびりついているなんて、誰がどう考えても予想外の出来事だ。 先日の恐怖体験を思い出しているのか、忘れようとしても忘れられないのか。 必死の思いで言葉を紡ぐ名無しの全身が、哀れなほどにガタガタと震えている。 「…その事を、信長様や光秀殿には言われたのですか?」 怯える彼女を安心させるかの如く穏やかな声音で優しく問うと、名無しが力なく左右に首を振る。 「それがあったのは数日前の事なんだけど、丁度殿の遠縁にあたる方が遊びに来ていらしたから、お客様がいらっしゃる時にわざわざそんな事をご報告するのもどうかと思って。それに…殿にご迷惑をかけてしまうのも忍びなかったし。ただでさえ今は諸外国との戦を控えて国全体がピリピリしている時なのに、自分の事で無駄な騒ぎを起こしたくなかったし…」 「…そうですか…」 私は心なしか怯えている様子の名無しの肩にそっと手を置くと、いつになく優しい眼差しを彼女に注ぐ。 数日前というと丁度露姫様がこの城に遊びに来ていた頃なので、名無しはただの客人どころか信長様の親類が来ているという時に主人の手を煩わせたくないと思ったらしい。 「そ、それに…こんな事を他人に言うのが嫌だったの。『報告をする時は必要事項だけを、淡々と。簡潔に』っていうのは十分分かっているんだけど、どうしてもその話題を口にするとあの時の光景が蘇ってしまって、上手い説明が出来なくて。自分の湯飲みにあんな物が入っていた事を殿や光秀みたいな男の人に打ち明けるなんて、私…。ううん、例え同性の濃姫様にだって、とても平気な顔で、こんな事は…」 「……もう、いいですよ。皆まで言う必要はありません。名無し」 「……っ!」 「私にも良く分かりますよ。その気持ち」 彼女の言葉に同意の意を示すようにコクリと頷くと、名無しが少々驚いた様子で私の顔を見つめ返す。 名無しはそんな私の顔をしばしの間まじまじと見つめていたが、やがて恥ずかしそうに頬を染めて私から再度目を逸らし、俯き加減で呟いた。 「ありがとう、蘭丸。そんな風に言ってくれる人が一人でもいて良かった。特にこういう話、男の人にはされた側の女の気持ちなんてなかなか伝わりにくいと思うから、殿や光秀にもやっぱり相談しにくくて」 「分かります、名無し」 本当によく分かりますよ、名無し。 貴女ではなく──────犯人の気持ちが。 貴女が愛用している私物に己の体液を注ぎ込み、送りつけた彼の気持ちが。 [TOP] ×
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