異次元 | ナノ


異次元 
【理想郷】
 




『私のように選ばれし人間に相応しい相手は、同じように特別な女性だけだと運命で決まっている。その場の勢いだけで結ばれて、冴えない夫や妻への不満を日々募らせているような庶民達とは違うのだ』

幼い時から賢く早熟で、教育熱心な母親の影響もあり若い頃から勉学に励んだ鍾会は、4才という幼少の頃から母親より『孝経』を教わる。

その後も数々の書物を読み込んで暗記までしてのけた鍾会は、若干5才の時に蒋済より『並外れた人間』とまで高く評価されていた期待の新星だった。

名家の出身。優れた頭脳。華々しい経歴。高い地位。恵まれた容姿。将来を約束されたエリートコース。自分と同じ、ハイクラスな者だけが集う人間関係。

周囲の大人達から希代の秀才だ、天才児だともてはやされ、常に褒め称えられていた彼の中には、いつの間にか自分は選ばれた人間だという意識と特権階級故の過剰な自信と傲慢さが根付いていた。

そんな彼が恋愛に対して求める物は、誰からも羨まれる理想的な恋人や伴侶。完璧な恋人(夫婦)像。完璧な家庭。

自分のような特別な人間≠ノ相応しいのはこういう女性、こういう恋愛、こういう関係、出会いから結婚に至るまでこういう馴れ初めでこういう展開で…というのが脳内で全てシュミレーションされていた。

理想の相手として白馬に跨った王子様を妄想する女性がいるのと同様、鍾会もまた純白のドレスに包まれたお姫様の姿を妄想し、私に相応しい運命の相手≠ニして考えている。

一言で説明するならば、鍾会の中にある『ファンタジー』だ。

鍾会は恋愛において、そのファンタジーを現実化しようとしている。己の脳内にある物語を忠実に再現しようとしている。

そのファンタジーが再現できなかった時。鍾会はショックを受け、相手に失望し、同時にとても大きな怒りを感じる。




「鍾会が以前見初めた相手は、容姿も家柄も申し分ない良家の子女だったが」

ポツリと呟き、司馬師は余韻を楽しむかのようにそこで一旦黙り込む。

高貴な家柄で、若く美しい容姿と類い希な頭脳を誇り、出世が約束された優秀な鍾会に、同じように外見・内面共に恵まれた女性。誰から見ても釣り合っていてお似合いの二人だった。

鍾会は彼女を一目見るなり気に入り、女性の方もまた鍾会の家柄や地位、麗しい容姿に魅せられてすっかり彼の虜になり、二人は付き合い始めた。

(彼女こそ理想の女性。私が探し求めていた運命の相手に違いない!)

そう思った鍾会は彼女にのめり込み、ゆくゆくは結婚まで視野に入れるほど彼女との交際に対して真剣だった。

だが、鍾会とその女性がつきあい始めて約3ヶ月。記念すべき初ベッドインの時に事件は起こった。

「清純そうな見た目に反して、実はその女が処女ではなかった事が発覚した。……ですよね」

途中で途切れた司馬師の言葉に補足を入れるようにして、司馬昭が続きの言葉を述べる。

「そう。それが鍾会の逆鱗に触れた」

司馬師は即座に答え、切れ長の目をスッと細めた。


「────幻想≠フ崩壊だ」


一方的に彼女に理想像を投影していたのは鍾会の方なのだが、鍾会は自分が騙された∞裏切られた≠ニ感じた。

この瞬間、彼女は鍾会の『理想の恋人候補』から外れ、彼のファンタジーは脆くも崩れ去った。

泡沫の夢から目が冷めた今、鍾会に残るのは行き場のない不満と怒りだけだ。

その大きさは、望んだ相手を手に入れるまでに相当な手間暇をかけ、それまでに費やした時間と労力が大きければ大きいほど、そして後少しでファンタジーが完成すると思っていた矢先に邪魔をされる程────特に。

『な、何故だ…!?何故貴女は処女じゃないんだ!!』
『ごっ…、ごめんなさい鍾会殿っ。騙すつもりはなかったの。で、でも言うタイミングが見付からなくて…。ごめんなさいっ。ごめんなさい…!!』

鍾会の怒りは非常に激しく、彼の怒髪は天を突いた。

『何故私以外の男なんかと…!汚れた女め!あなたには失望した!この売女!!売女!!』

己の計画と苦労が水の泡になったと感じた鍾会は普段の彼には似合わない程に口汚い言葉で女性を罵ると、彼女の首に両腕をかけて思い切り締め付けた。

見た目だけなら一見優男風に見える鍾会だが、彼とていざ戦争となれば剣を手にして勇猛果敢に闘う立派な武将の一人である。

世間一般の男性と比べれば、よっぽど筋力も腕力もある鍾会。

そんな男性に本気で首を絞められては、か弱い良家の子女などひとたまりもない。

いや、彼女でなくても普通の女性であればその暴力から自力で逃れる事は到底困難であろう。

あわや彼女は鍾会によって絞め殺される直前という時、鍾会の怒号と女性の悲鳴を聞いた警備の者達が異変に気付いて室内に飛び込んだ。

『鍾会殿…!!な、何をしていらっしゃるのですか!?そのような事をされてはお嬢様が死んでしまいます!!お止め下さい!どうかお止め下さい!!』
『ええい、黙れっ!兵士風情が私の邪魔をするな!私をたばかったこの女だけは許さんっ。よくもこの私にこれほどの屈辱を…!離せ、離せえっ!!』

鍾会は抵抗し、何人もの兵士達が返り討ちにあったが、多勢に無勢。最終的には大勢の屈強な兵士達によって取り押さえられた。

高貴な家柄の令嬢が、ベッドの上で危うく男に殺されそうになった。

普通なら大騒ぎになりそうな事件であり、殺人未遂を犯した男の方も厳しい処分を受けるはずであろうが、この時は違っていた。

何故ならこの女性の家よりも鍾会の方が遙かに身分の高い家柄であり、強い影響力を持っていたからだ。

事実を知った鍾家は一族が誇る大切な御曹司・鍾会の地位と名声を守る為にただちに女性の家に圧力をかけ、決して他言しないように、余計な真似をしたら容赦しないと脅した。

その結果、彼女や両親達は泣き寝入りをする羽目になり、この事件は闇から闇へと葬られた。

知っているのはごく一部の人間だけだ。


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