異次元 | ナノ


異次元 
【理想郷】
 




『えっ…、子上……こっ、こんなに読むの!?』

数十冊毎に紐で縛られ、大量に積み上げられたエロ本にはさすがの名無しも圧倒された。

呆気に取られた顔付きでポカンと口を開けている名無しに、司馬昭は梱包作業を続けながら質問の答えを返す。

『まあな。俺も男だし、そういう時期なんだよ』

正しくはそういう年頃なんだよ≠ニ司馬昭は言いたかったのだが、他の事をやりながら適当に返事をしたので言い間違えた。

特に深い意味もなく返した言葉なのに、司馬昭の言った『時期』というのを聞いて真面目に考えたのか、名無しはますます『???』といった表情を浮かべて司馬昭を見た。

『時期……?年齢じゃなく時期って……もしかして子上、発情期……とか?』

戸惑い気味の口調で告げる名無しの回答に、司馬昭は思わずズルッとずっこけそうになった。

『ちっげーよ!!』

勿論その場で反論したのだが、その時名無しに言われた事が司馬昭の記憶に残されていた。

「全く失礼しちゃうぜ。別に発情期なんかないっつーの。つうか、『期』じゃねえんだよっ」

自分の言い間違えはあっさりと横に置き、司馬昭は『ホント、女って男の事が分かってねーな!』と名無しに対するボヤきを漏らす。

「犬や猫みたいに年に何回かたまたまそういう時期が来るっていうんじゃなくて、人間の雄は年がら年中休みナシ、365日発情期だっつーの。覚えとけ!」

言い様、ビシッと中指を突き立てる『ファック』ポーズを取って、司馬昭が悪態を付く。

「……と、文句を言いたかったのは山々なんですが、そこは名無しの前です。笑って堪えて紳士のフリをしておきました」
「100冊を超えるエロ本を所持していた事を知られた時点で、紳士もクソもないだろう」
「そういえばそうですね。ハハハッ」

相変わらずの兄弟漫才が繰り広げられる中、鍾会は一人思い悩んでいた。

(前はどうでも良かった。……だが、今は苦しい)

以前は全く平気だった。名無しの名前を耳にするのも、彼女と司馬兄弟が仲良さそうにしている話を耳にするのも。

最近は苦しくなる。正直、こんな話は聞きたくない。

どうして彼女は司馬師殿と司馬昭殿の事は名前で呼ぶのに、私の事は名前で呼んでくれないのだろうか。

(何故……なのだろう)

何故、彼女の名前を聞くとこんなにも苦しいのだろう。

何故、彼らと名無しの話を聞くとこんなにも胸が締め付けられるほどに痛むのだろう?

「……自分が彼女に抱いている気持ちが、どういう種類の物なのかは分かりませんが……」
「ん?」
「最近、気になっている女性はいます」
「えっ!マジで!?」

突然、ポツリと漏らされた鍾会の告白に、司馬昭が素で驚いたような顔をする。

「分からないとは、例えば?」

司馬師は、額にかかっている前髪を優雅な手付きで後ろに掻き上げながら言う。

すると鍾会は、普段『天才』の呼び名に相応しく、どんな質問にもすぐさま答える彼には似つかわしくないほどに困惑気味の表情を見せた。

「例えば…、ですか…。そうですね…」

単純な司馬師の質問に、どういう訳か、鍾会はひどく考え込んだのである。

「彼女の事を考えると、イライラして、腹が立って、心拍数がおかしくなって、心臓が押し潰されそうで、時々呼吸まで苦しくなります」
「……。」
「でも、気付けば彼女の姿を探してしまう。自分といる時以外に彼女が何をしているのか気になって、でも自分以外の男と仲良くしている光景は見たくなくて、彼女の全てを知りたいような知りたくないような複雑な気持ちで、何かが喉の奥につかえているようで胃がムカムカします」
「……。」

司馬師と司馬昭は、日頃から随分気まぐれな方だった。

自分達にとって関心がない話題の時には話途中で平気で立ち上がる事も珍しくない彼らだが、普段滅多に見られない混乱気味の鍾会の姿と彼の独白があまりにも予想外だったのか、二人とも微動だにせず鍾会の顔を凝視している。


「彼女の事を思うと、思うように思考がまとまらなくて溜息ばかりが漏れる。……胸の奥が痛いんだ」


低い声でそう言うと、鍾会は言葉通り自分の胸に手を添えて、苦しそうな顔付きでギュッと心臓の辺りを押さえた。


こうして考えている今も、息が苦しい。苦しくて、切ない。


─────どうしてだろう?


「お前…、本気で言ってる?それで自覚ないとか言ったらマジで殴るぜ」

司馬昭は、心底呆れたような顔で鍾会の顔をまじまじと見つめて言った。

しかし、当の鍾会と言えば『えっ?』と短く告げるのみで、ますます眉間に皺を寄せるばかり。

「……惚れているのだな」

きっぱりと言い切った司馬師の言葉に、鍾会は驚いて目を見開く。

「ああ。その女に惚れてんだな、鍾会。声で分かるぜ」

何を言われているのか分からない、と言った様子で完全に固まっている鍾会に対し、司馬昭は兄の言葉に賛同の意を示しつつ男前の顔で笑った。


その女に惚れている。


────この私が!?


司馬昭の言葉を聞いた直後、鍾会の胸はドクドクと高鳴り、心拍数が加速的に増えていく。


私が……名無しに惚れている。


彼女こそが、私の探し求めていた相手。この私の心を惑わせる、眩しい魅力に満ちた運命の女性。


まさか……、本当にっ?


これが他の人間に言われた事であれば、鍾会は咄嗟に『まさか!!』と否定し、その後も延々と悩み続けるだろう。

しかし、普段から親しくしている司馬兄弟に言われたという事と、二人の方が自分より遙かに女慣れしているように思える事もあり、この時の司馬師と司馬昭の言葉は鍾会の心に素直に響いた。


「どこの誰だか知りたい気もするが、あえてこっちからは聞かない事にしてやろう。どうせプライドの高いお前の事だ。他人に言いふらした後、もし上手くいかずに振られたら恥ずかしくてこの城に居られないだろうから、確実に脈があると分かるまで誰に何を聞かれようが答えるはずがあるまい」

司馬師の、からかうように告げられた言葉に、人形のように整いすぎている鍾会の顔にサッと赤みが差す。


[TOP]
×