異次元 【鍾会クンの憂鬱】 携帯電話なんて必要ないと思っていた。 むしろ、持っている方が嫌な事が多いと思っていた。 どうでもいい奴から夜中に電話がかかってきたり、「今何してるの?」とかどうでもいいメールが入ってきたり、「どうして電話に出てくれないの?」「なんでメールの返事をくれないの?」とか親友や恋人でもない相手からグチグチ文句を言われたり。 考えるだけで面倒臭そうで、煩わしいだけの邪魔なアイテムだと思っていた。 だからこそ、何の興味も湧かなかった。一度も欲しいと思った事がなかった。 あの時までは。 ここは全国から選りすぐりの人材が集まると言われる無双大学。 数ある大学の中でも特に試験の難易度が高く、受験者も多い事で知られる最難関の大学である。 卒業後も即就職せずに大学院に進む者も多く、いざ就職となれば高級官僚や一流企業の社員、将来を約束されたエリートコースを突き進む者が多数と言われる有名校だ。 その大学の構内にある喫茶店で、一人の男性が座っていた。 テーブルの上でノートを開き、紙面に目を通しながら優雅にカフェオレを飲んでいる彼の名は鍾会。 名門・鍾家の跡取りとして生まれ、幼い頃よりずっと英才教育を受けてきた彼は、同い年の男性達に比べ非常に優れた頭脳を持っており、無双大学の入学試験をトップクラスの成績で突破してきたという優秀な男性である。 その上、彼の見た目はいわゆる「イケメン」の部類に入るもので、モデルのように整った顔とスラリとした体躯を持つ美青年だった。 そんな鍾会は当然の事ながら女性人気も非常に高く、現に今この瞬間も、同じ喫茶店でお茶を飲んだり食事を取っている女子大生達から熱い眼差しを注がれていた。 「ねえ、あれ…見て見て!鍾会君よ!」 「生の士季君が見られるなんて超ラッキー!ツイてるー!」 「ちょっと!勝手に鍾会君を名前で呼ばないでよ!彼女でもないくせに!」 一応、本人に聞こえないようにと気を遣っているつもりなのかもしれないが、鍾会遭遇に興奮を抑えきれない女子達のキャアキャアという黄色い声は鍾会の耳にもバッチリ聞こえていた。 しかし、当の本人はいささかウンザリした顔でその声を聞き流すだけで、彼女達に笑顔を返すという訳でもない。 両親の英才教育の賜物か、彼は世間の若者のように恋愛≠ニいう物には大した憧れを持っておらず、関心すら寄せていなかった。 鍾会の中に…、というか、鍾家の人間が幼少期から叩き込まれる方程式は、 出世コース>>>>>>越えられない壁>>>>>>友情・恋愛 である。 10代や20代のいわゆる若者の時期は、人生で最も物事の吸収率が良く、勉学に励まなくてはならない時期である。 学生時代にどれだけ勉強に取り組んだかどうかで己の将来が決まる。給料が決まる。結婚相手も決まる。老後の生活も決まる。 そんな大事な時に何の実りもないチャラチャラした男女の付き合いや、自分よりも低レベルな学友達との交流にうつつを抜かすなど愚の骨頂。 それは人間ピラミッドでいうと最下層に属する者達、低俗な人間共のする事だ。 そう思い、鍾会はサークル等に入って未来の恋人や気の合う友人探しに勤しむ在学生達をフンと鼻で笑うと、将来の夢:高級官僚に向けて大学生活の殆どをストイックなまでに勉強一本に向けていた。 ある女性に会うまでは。 「鍾会!」 カフェオレをじんわりと口に含みながら、先程受けた講義で取ったメモの内容を読み返している鍾会の耳に、聞き覚えのある声が届く。 自分の名前が呼ばれた事に反応して顔を上げた鍾会の目に、一人の女性の姿が映った。 (……あ) 視界に捉えた人物の正体に気付いた鍾会の目が微かな驚きと共に見開かれる。 そこにいたのは、鍾会と同じ大学に通っている女子大生だった。 「…名無し…」 「元気?鍾会っ」 人好きのする笑顔を見せつつ、名無しがタタッと駆け足で鍾会の元へと近付いてくる。 いつ会ってもニコニコと優しい笑顔を浮かべ、誰に対しても分け隔て無く接するこの女性の名は名無しという。 今まで勉強にしか興味がなかった鍾会に、不思議な変化をもたらした女性。 鍾会が密かに恋心を抱く、たった一人の思い人だ。 「こんな所で会うなんて偶然だね。何してるの?」 名無しは鍾会の正面にある椅子を後ろに引くと、自分の膝の上にバッグを抱えて座った。 鍾会に会えて嬉しい!という喜びを全身から滲ませているかのような、どこまでも明るく素直な名無しの態度は、他人に対して硬化している鍾会の心をも優しく解していく。 「……さっき受けた講義の内容を振り返っていただけだ。資格を取る為の勉強もしないといけないし、空いた時間に出来るだけの事をやっておこうと思って」 「わあ…、さすがだね〜。前から思ってたけど、鍾会って本当にきちんとしているよね。尊敬するよ」 文字通り尊敬しちゃいますビーム≠目から発射しつつ優しく笑う名無しを見て、照れた鍾会の頬がほんのりと染まる。 「べ、別に…そんなに大した事はしていない。今からやらなければ間に合わないと判断したからやっているだけだ。当然の事だろう?」 「確かにそうだと思うけど、やらなきゃダメ!って分かっていてもなかなか出来ない、っていう人は結構世の中には多いと思うよ。他の事を優先しちゃったり」 「例えば?」 「うーん…そうだね。私の場合だと今週末には絶対に部屋の片付けをする≠チて思ってたのに友達から電話がかかってきて遊びに誘われて、何だかんだでその日の予定が全部お流れになるパターンかな。掃除の予定は結局また来週に持ち越しとか」 名無しの返事に、鍾会は怪訝な表情を浮かべた。 「前々から掃除をすると決めていたのなら、問答無用でそちらを最優先すればいいだろう。他人の誘いと自分の予定なら優先するべきは自分の方だ」 「えっ…、そう?」 冷たい口調でキッパリと告げる鍾会に、今度は名無しが意外そうに目を丸くする。 「当たり前だろう。名無しがどう思うかは知らないが、少なくとも私は嫌だな。何の約束もしていないのに、休日に突然電話をしてくるような図々しい人間の話など聞いてやる必要はない。赤の他人に自分の貴重な時間を割いてやるのは無駄遣い以外の何物でもないし、何よりその計画性のない行動をこちらに押し付け、他人を巻き込もうとしてくる発想自体が不愉快だ」 「そうかなあ」 鍾会の返答を聞いた名無しは、そっと自分の手で胸元を押さえて呟く。 彼女はそうして少しの間黙り込み、自分の胸に聞くようにして何やら考える素振りを見せる。 [TOP] ×
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