異次元 | ナノ


異次元 
【有毒男子】
 




「ちゅ…、仲達っ……!!」

極度の不安と緊張からくる震えで、名無しの歯が知らず知らずのうちにカチカチと小さく鳴る。

しかし、司馬懿は哀れな程に怯えまくっている名無しの呼びかけを無視すると、独り言のようにボソッと呟く。

「私と殿を敵に回すか。そうかそうか……」

名無しの顔は司馬懿の台詞を聞くなりサッと青ざめ、一気に血の気を失った。

名無しは泣き出しそうなくらいに全身をブルブルと震わせると、司馬懿の元にタタッと駆け寄り、男の足に腕を伸ばしてひしっとしがみつく。

「いやー!仲達!やめてやめてっ!お願いだからやめて!ごめんなさいっ!!」
「黙れ。自分の主人が誰なのかを忘れるような無能な奴隷はいらん」
「仲達…ごめんなさいっ。ごめんなさい…!!」

奴隷呼ばわりされる事に反論したい気もするが、そんな事はもはやどうでもいい。

名無しはこれからも司馬懿と一緒に執務にあたらなくてはならないのだ。

毎日顔を付き合わせて仕事をする職場の同僚と険悪な雰囲気になるのは出来る限り避けたいし、極力仲良くしたいと思うのは名無しだけでなく広く一般的な感覚だろう。

そして、もっと言えばそんな小理屈すらどうでもいいと思えるくらいに、曹丕や司馬懿の機嫌を損ねる事は名無しにとって最大級に恐ろしい。

曹丕達が悪いというのであればまた話は変わってくるが、今回は完全に口を滑らせた名無しのミスである。

100%己の失態で司馬懿の怒りを買ってしまった以上、名無しは恥ずかしいとかみっともないとか考えている暇はなく、なんとかして彼の許しを得なければならないと身に染みて理解していた。

「気安く触るな。私のような冷たい男よりも、お優しい郭嘉様の方がいいんだろう?だったらそっちへ行け。遠慮はいらんぞ」

司馬懿は犬や猫を追い払うような仕草でシッ、シッ、と名無しに向けて手を振り、彼女の訴えを拒絶する。

遠慮はいらんぞ、なんて言っておいて。

いざ本当に名無しが曹丕や司馬懿を捨てて他の男の元に走ったら、それこそどんな目に遭わされるか想像するに恐ろしい事態ではないか。

「お願い…仲達。ごめんなさい…許して……」

両目一杯涙を溜めて、名無しが謝罪の言葉を述べる。

男を仰ぐ名無しの瞳は、今にも涙が溢れそうである。

椅子に座ったままの司馬懿に合わせ、名無しが床に膝を付けて男の足に縋り付く体勢の為、自然と名無しが司馬懿を見上げる構図になる。

男の冷酷な視線に見下ろされているのを感じながら、それでも名無しは必死になって司馬懿に懇願した。

「……ごめんなさいっ……」

ポロッ…と、ついに名無しの両目から一筋の涙が零れ、彼女の頬を伝って流れる。

司馬懿は名無しの頬に長い指を這わせて彼女の涙をすくい取ると、名無しの泣き顔にいくらかの興奮を覚えているのか、微かに熱を帯びた瞳で名無しを見た。

「────これに懲りたら、今後は不用意な発言は慎むことだ」

コン、と司馬懿に小突かれて、名無しは反射的にビクッと肩を跳ねさせる。

誠心誠意謝った甲斐あって、どうやら許して貰えたのだろうか?

不安の色を滲ませて司馬懿を仰ぎ続ける名無しに、司馬懿が満足げな笑みを返す。

「お前の泣き顔は何度見ても面白い。ブサイクな顔が余計にブサイクになるからな」
「仲達っ!」

恨めしい目付きでキッと名無しが睨んでも、司馬懿は屁のカッパ。

それどころか、名無しの呼吸の邪魔をするように、嫌がる名無しを無視して何度も名無しの鼻を摘んでくる。

郭嘉の言う通りだ。この鬼畜調教師!!

「……で?」
「えっ?」
「どうするんだ。クリスマスは。郭嘉の誘いに乗るのか、断るのか」
「そ、それは……」

司馬懿の言葉に名無しの顔色はまたしてもサアッ…と青くなる。

顔面蒼白状態になって二の句が継げずにいる名無しを見る司馬懿といえば、明らかにこの状況を楽しんでいる顔付きだ。

郭嘉の誘いを断ったら断ったで、今後も郭嘉から色々と言われそうである。

曹丕達と同じくらい、プライドも自尊心も高い郭嘉の事。

先程の遣り取りの流れを汲んで、名無しに断られた事に不満を持った郭嘉が事実確認の為に司馬懿の元を訪れる可能性もある。

腹に一物も二物もあるニッコリ笑顔を浮かべ、『名無しの事だけど…、司馬懿殿が何か余計な邪魔をしてくれたのかな?』と尋ねて司馬懿とバトルに突入し、面倒な方向に話が進んでいくかもしれない。

だが郭嘉の誘いに乗ったら乗ったで、今度は司馬懿が怖い。

郭嘉に誘われている現場を司馬懿に目撃された以上、仕事が終わってから司馬懿に気付かれないように城を抜け出し、郭嘉と会うのはかなり無理がある。

さらに。

それを曹丕にまで知られたら、もっと怖い。

(うう〜っ…私が何をしたっていうの〜!!)

自分はただ単に魏城に来てから毎日せっせと仕事に励み、少しでも曹操や魏のお役に立ちたいと思ってこの数年間頑張ってきただけだった。

それなのに、どうしていつの間にかこんな展開になり、こんな状況に陥ってしまったのだろう。

何故!何故!?

どうしてこんな事に!!

「わ…、私は……っ」

震える唇を動かし、名無しが涙ぐみながら懸命に言葉を紡ぐ。

司馬懿は名無しの鼻を摘んでいた手を離すと、切れ長の目をすっと細めて名無しの返事に耳を傾けた。




この城にいる美しい男達は、まるで生まれ付き体内に毒を秘めているような有毒男子。


曹丕と司馬懿はきっと即効性。一度目が合っただけで、一度味わっただけで女の思考も理性も貞操観念も全て麻痺させ、たちまち死に至る強烈な毒だ。


それに対し、郭嘉はきっと遅効性。曹丕達ほどの即効性はないものの、じわりじわりと確実に効いていく。


彼と何度も顔を合わせ、その瞳で見つめられ、言葉を交わしていくうちに女は知らず知らずの間に全身に毒素が回り、心地良い陶酔感と共に眠るように死んでいく。強いて言うなら優しい毒≠セ。


色や形、見た目や匂い。効き目やスピードの違いはあれど、妖しい光を放つその輝きに魅せられて手を伸ばしてしまったら最後。


女達はその瞬間から皆一様にして彼らの魔力に囚われ、拘束され、全てを奪われてしまうに違いない。


だがその腕の中で息絶える事が出来るのなら本望だとすら思える魅力が、彼らにはある。


あなたを知ってしまったらもう二度と戻れない。誰も助からない、愛しい人よ。


この世のどこにも解毒剤がない、未だ謎に包まれたままの神秘の毒のようです。




────あなたはまるで。




─END─
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